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腕時計史 · MILESTONE — 第0章 前史
18C

エタブリサージュの成立

一人の名工ではなく、谷に張り巡らされた分業の網がスイスの優位を支えた。エタブリサージュは18世紀に組み上がった産業の骨格である

§ 00 Overview

18世紀のスイスでは、一人の親方が一台を仕上げる従来のやり方に代わり、部品ごとに専門職人へ仕事を割り振る分業生産が広がった。これをエタブリサージュと呼ぶ。中心の仲介者エタブリスールが部品を在宅の専門職人に発注し、集めて組み立て、自らの名で売った。ジュラ山脈の谷では冬の農閑期に農民が部品を作り、安く豊富な労働力となった。すでにジュネーブの時計師は仕上げに専念し近隣の谷へ部品作りを外注していたが、その仕組みをヌーシャテルの山地に根づかせた立役者がダニエル・ジャンリシャールとされる。この分業の網が、スイスが量と速さで英仏を追い抜く制度的な土台となった。

§ 01 Background

18世紀に入るころ、時計づくりは一人の親方が一台をまるごと仕立てる仕事だった。技術の先頭にいたのは英国の時計師で、その前はドイツや仏の職人が担っていた。スイスでもジュネーブでは16世紀半ばから時計づくりが根づき、宗教改革で流入した職人が高い技を蓄えていた。17世紀の末には、ジュネーブの時計師は仕上げに専念し、地板や歯車の素材を近隣の谷へ外注するようになっていた。分業という発想そのものは、この都市の慣行にすでに芽生えていた。

一方、ヌーシャテルの山地は時計づくりに適した条件を備えていた。標高が高く冬が長いため、農民には農作業の手が空く季節があった。住民は錠前や銃、釘づくりといった金属加工で手先を鍛えていた。何より、この地には都市のような厳しい同業組合の縛りがなかった。誰がどんな仕事をしてもよく、外から来た起業家が自由に人を組織できた。ナントの勅令廃止でフランスを逃れたユグノーがもたらした知識も、技の素地を厚くしたと伝わる。

§ 02 The Event

ヌーシャテルの山地にこの仕組みを根づかせた人物として、ダニエル・ジャンリシャール(1665-1741)の名が伝わる。年代記によれば、1679年に旅の馬商人が持ち込んだロンドン製の壊れた時計を若き彼が修理し、独学で時計づくりを始めたという。ただしこの逸話は後世の記録者が脚色した部分が多く、現代の研究は伝説として扱う。確かなのは、彼がル・ロックルを拠点に多くの弟子を育て、山地に分業生産を広めた中心人物だったという点である。

エタブリサージュの要は、エタブリスールと呼ばれる仲介者だった。彼は商会(コントワール)を構え、ケースや文字盤、地板、ヒゲゼンマイ、脱進機といった部品を、それぞれ専門の職人へ発注する。職人の多くは自宅や小さな仕事場で働き、一つの部品だけを繰り返し作って腕を上げた。集まった部品をエタブリスールが組み立て、調整し、自分の名や信用を看板にして売り出す。在宅の職人に仕事を配る、いわゆる問屋制家内工業である。

ジュラの谷では、農閑期の長い冬がこの生産を支えた。畑仕事のない農民が部品づくりの担い手となり、安く豊富な労働力を生んだ。仕組みはヌーシャテルの山地からサン=ティミエ谷やフランシュ=モンターニュへ広がり、18世紀の後半には谷ごとに無数の小工房が連なる産地が形づくられた。需要が増えても大工場には向かわず、むしろ工程をさらに細かく分ける方向へ進んだ。1台の時計に必要な作業の数は、時代が下るほど増えていったと記録される。

§ 03 Significance

エタブリサージュがもたらした変化は、まず生産量と価格に表れた。専門化と在宅労働の組み合わせは、英仏の親方仕事より速く安く時計を生み出した。ジュネーブは1790年に年6万本を超える時計を輸出していた。19世紀初めにはスイス全体の生産が英国と肩を並べ、やがて大きく引き離していった。もっとも、量の優位がそのまま質の高さを意味したわけではない。安価で出回るスイス時計には、手仕事の名品に及ばないものも多かった。

それでもこの仕組みは、スイス時計産業の骨格を決めた。中心に立つエタブリスールは、部品を束ねて自らの名で売る点で、近代的な企業やブランドの原型でもあった。多数の専門業者が緩やかに連なる供給網という構造は、その後も長く保たれた。

この分散した生産体制は、両刃でもあった。柔軟な部品供給は強みとなったが、19世紀に米国が機械化と互換部品で量産を進めたとき、細かな手分業に頼るスイスは標準化で後れを取る場面もあった。谷に根づいた供給網そのものは、危機のたびに組み替えられながら現代まで残った。エタブリサージュは、スイスがなぜ時計の国になったかを説明する制度的な出発点であり、本史がたどるスイス通史の土台に置かれる。

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