シャルル・ベルモ
クォーツ危機の只中で命令に背き、エル・プリメロの製造工具を屋根裏に隠して守り抜いたゼニスのエボーシュ製造責任者
生涯
1. マルテル・ウォッチの徒弟
シャルル・ベルモ(Charles Vermot)の職歴は、スイス・ヌーシャテル州の谷あいの町ポン・ド・マルテルで始まる。16歳で地元のマルテル・ウォッチ社に徒弟として入ったと伝えられる。同社はクロノグラフのエボーシュ(ムーブメントの基盤部分)を専門とし、複数のブランドに供給する部品メーカーであった。職場では「シャルリー」の愛称で呼ばれ、寡黙で几帳面な人物として通っていたという。
徒弟時代に、彼は一つの光景を目にしている。懐中時計用キャリバーの工具と資料が、場所を空けるためという理由で一括して処分されたのである。作られた技術が記録ごと消えることへの抵抗感を、ベルモは後年の取材でも語っている。
マルテル・ウォッチは1960年前後にゼニスの傘下に入り、ベルモの籍も移った。彼は結果として40年ほどを同じ製造の現場で過ごし、ル・ロクルのマニュファクチュールでエボーシュ製造の責任者に就く。所属はアトリエ4、クロノグラフ・ムーブメントの構造を扱う部署だった。
2. エル・プリメロと1975年の命令
1962年に始まったゼニスの自動巻クロノグラフ開発に、ベルモは初期から加わっている。1969年1月に発表されたエル・プリメロは、毎時36,000振動の一体設計であった。その量産には専用に起こした多数の工具が要り、彼はその設計と製作を担う立場にあった。
発表の数年後、状況は反転する。1971年、ゼニスは米国の電子機器企業ゼニス・ラジオ・コーポレーションの傘下に入った。新しい経営はクォーツへの集中を選ぶ。1975年、機械式ムーブメントの生産停止と、抜き型・図面・工作機械の処分が決まった。金属は重量単位で売却される予定だった。
ベルモは経営陣に手紙を送っている。進歩に反対する立場ではないと断りつつ、世の中には常に揺り戻しがある、自動巻クロノグラフが完全に終わると考えるのは誤りで、いつか会社はその回帰から利益を得るだろう、という趣旨であった。返答は届かなかったと伝えられる。
3. 沈黙の9年と呼び戻し
工具の移送は勤務時間の外に行われた。責任者として工場の鍵を持っていたことが作業を可能にし、同じくゼニスに勤めていた弟のモーリスが手を貸したと伝えられる。ベルモは家族にも目的を告げていない。夜の帰宅が続いたことで家庭に不審を招いたという逸話も残る。作業を終えると、屋根裏への入口を煉瓦とセメントで塞いだ。
その後まもなく彼は定年を迎え、家庭菜園を手入れする日々に入る。1978年、ゼニスはポール・カステラを中心とするスイスの実業家グループへ売却され、機械式への回帰が模索され始めた。エベルが、続いてロレックスがエル・プリメロに関心を示す。だが社内では、製造の手段はすべて失われたと理解されていた。
1984年、技術部門の責任者ジャン=ピエール・ゲルベールが、噂を頼りに退職者を訪ねる。エル・プリメロを再開したい、力を貸してほしい——ベルモは秘密を明かし、屋根裏の壁は開かれた。再開の作業には彼自身も加わっている。1991年のスイス放送協会の取材で報酬を問われると、手首のエル・プリメロを示し、妻と食事に招かれたと答えた。
業績・代表作
1. 量産としてのエル・プリメロ
ベルモの本業は、腕時計を一本ずつ組む職人仕事ではなく、ムーブメントを量産するための土台を整えることにあった。エボーシュ製造の責任者として、地板や受けを打ち抜く抜き型(エタンプ)、カム、切削工具を設計し、工程の順序を定める。エル・プリメロの製造には二千に及ぶ作業工程が要したと記録されており、その一つひとつに対応する治具と手順が存在した。
守られた対象はエル・プリメロ(3019系)に限られない。手巻の2572など、当時生産されていた他の機械式キャリバーの製造手段も含まれていたとされる。
2. 隠すことではなく、整理すること
この行為の本質は隠匿よりも記録の側にある。ベルモは運び上げる前に、抜き型、カム、切削工具の一点ごとに札を付け、番号を振り、対応する図面と作業工程表をバインダーに綴じた。木箱は9つ。抜き型はおよそ150組、総重量は1トン近くに達し、当時の価格では1組あたり40,000スイスフラン前後と伝えられる。金属としての価値より、どの工具がどの工程のどこで使われるかという対応関係のほうが再現困難であり、彼はそこを残した。
1984年に工具を作り直す案が検討された際、技術部門の責任者は、再製作には数年と600万から700万スイスフランを要したと証言している。費用と時間の双方から、ベルモの記録がなければ再開の判断は否定的なものになっていた、というのが当事者の見方である。
3. 一つの決断が及んだ範囲
再開後のエル・プリメロは、まずエベルへ、次いでロレックスへ供給された。ロレックスは調速機を毎時28,800振動へ改めたキャリバー4030としてこれを採用し、1988年発表の自動巻コスモグラフ デイトナに搭載する。手巻から自動巻への転換という、ロレックスの主要モデルの節目が、隠された工具の上に成立していたことになる。
ゼニス自身にとっても意味は大きい。クォーツ期に多くのスイス企業が自社ムーブメントの製造能力を失ったのに対し、同社はクロノグラフの一貫生産を保った。1999年にLVMHの傘下へ入った後も、エル・プリメロは主力コレクションの中核であり続けている。
4. 記録として残す、という職能観
ベルモの判断を貫くのは、技術は人の記憶ではなく物と記録の中にしか残らない、という理解である。徒弟時代に懐中時計の工具と資料が失われる場面を見ていた彼にとって、廃棄命令は生産計画の変更ではなく、再現手段の消滅を意味した。手紙で流行の回帰を説いたのも、市場予測というより、失えば戻せないという性質への警戒だったと読める。設計者でも経営者でもない立場から産業史に残った例として、その仕事は位置づけられる。
評価・後世への影響
屋根裏はその後、取り壊されずに残された。ル・ロクルのマニュファクチュールでは、1984年に開かれたときの状態を保ったまま棚と木箱が置かれ、工場見学の行程に組み込まれている。産業遺構としての時計製造の街並みは2009年にユネスコの世界遺産に登録されており、この一室はその文脈の中で語られることが多い。
ゼニスは2014年、エル・プリメロ クロノマスター パワーリザーブをベースにした「トリビュート トゥ シャルル・ベルモ」を発表した。限定数は1,975本で、命令が下った1975年に由来する。翌年には同名の410系モデルも続いた。2018年には、エル・プリメロ発表50周年を前に屋根裏を調べていた社員が、札のない箱から未使用の文字盤を見つけている。この文字盤は2020年の復刻モデルに用いられ、保管が思わぬ副産物を生んだ例となった。
同種の話は他にもある。ヴァルジュー7750の製造手段も、廃棄命令に反して工具と資料を確保した技術者エドモン・カプトによって残された。1970年代のスイス時計産業では、経営判断とは別の水準で、現場の側が技術の継続性を担保する場面がいくつも生じていた。
時計史は創業者と設計者の名前で語られることが多い。ベルモの評価が定着したのは、そこに製造現場という第三の層があることを、具体的な物証とともに示したためである。1984年の生産再開と、1991年の放送によって自らの行為が知られていく過程を、ベルモは存命のうちに見届けている。ゼニスが彼の名を冠したモデルを出したのは、その後のことである。