9S85
2009年、41年ぶりに復活した10振動。MEMS製脱進機とSPRON合金で再構築されたグランドセイコー基幹ハイビートキャリバー
Cal. 9S85は、2009年に発表されたグランドセイコーの自動巻ハイビートキャリバーである。1968年の61GS以来、41年ぶりに本格量産された自社製10振動 (36,000vph/5Hz) 機械式ムーブメントで、岩手県雫石町のグランドセイコースタジオで組立調整される。新開発のSPRON 610ヒゲゼンマイ、SPRON 530系の主ゼンマイ、半導体技術MEMSによって軽量化された脱進機を備え、振動数の高さと55時間のパワーリザーブを両立する。搭載モデルは初代SBGH001を皮切りに、ヘリテージSBGH201/205、ダイバーSBGH257ほか、GMT派生のCal. 9S86を含めて幅広く展開される。
| Maker | Grand Seiko |
|---|---|
| Reference | 9S85 |
| Type | Automatic |
| Display | Analog |
| Frequency | 36,000 bph (5 Hz) |
| Jewels | 37 石 |
| Power reserve | 55 h |
| Movement ⌀ | 28.4 mm |
| Hands | Hours, Minutes, Seconds |
| Date | Date |
系譜と歴史
1. 開発の背景:1968年の遺産
10振動 (36,000vph) の機械式ムーブメントは、1960年代後半に天文台クロノメーターコンクールで覇を競った各社が到達した精度技術の頂点である。グランドセイコーもまた、1968年に日本初の自動巻10振動キャリバー61GS、続いて手巻10振動の45GSを世に送り出した。しかし1970年代以降のクォーツ革命を受け、ハイビート機械式は採算性の問題から世界的に途絶する。日本では41年もの空白を迎えることになった。
Cal. 9S85は、その空白を埋める存在として2009年に登場した。直接の伏線は前年の2008年、セイコー最上位ライン「クレドール」が世界に1本だけ製作した「GBBX998 春一輪」に搭載されたCal. 8L88「スプリング・ソウル」である。43,200vphの実験的キャリバーが、量産可能な10振動への技術的橋頭堡となったと伝わる。
2. 技術的革新:素材と製造の同時刷新
Cal. 9S85の開発思想は、ハイビート固有の課題──主ゼンマイの動力供給、脱進機の摩耗耐性──を素材と製造技術の両面から解決することにあった。
中核を成すのはSPRON合金の新世代である。テンプの命であるヒゲゼンマイには、5年の歳月をかけて開発された「SPRON 610」が採用された。従来比で耐衝撃性は約2倍、耐磁性は3倍以上に高められている。主ゼンマイには6年の開発期間を経た「SPRON 530」 (発表当初はSPRON 510) が用いられ、約6%の出力向上と5時間延長のパワーリザーブを実現する。
もう一つの革新は、半導体製造で培われたMEMS (Micro Electro Mechanical System) 技術の脱進機への応用である。エスケープホイールとパレットフォークは1/10,000mm単位の精度で成形され、それぞれ約5%、約25%の軽量化を達成する。エスケープホイールの歯先には潤滑油保持のための微細なリザーバー (油溜まり) が刻まれ、長期にわたる安定動作を支える。
3. 派生と展開
2014年にはGMT機能を加えたCal. 9S86が登場し、SBGJ001を皮切りにハイビートGMT群を構成した。2018年の9Sキャリバー誕生20周年企画では、+4/-2秒のスペシャル規格を満たす個体に「SPECIAL」表記を与える限定モデル群が発表される。同年にはV.F.A. (Very Fine Adjusted) 規格の-1/+3秒に調整された9S85派生も公開され、61GS V.F.A.の精神を蘇らせる試みとなった。
現行ではSPRON 530主ゼンマイを搭載する9S85A、2026年のSBGH376「桜若葉」で導入された9S85Bといった内部改訂が続いている。2020年発表のCal. 9SA5はデュアル・インパルス脱進機を採用した別系統の再設計で、9S85は基幹ハイビートとして並行生産される。
4. 業界の中での位置
毎時36,000振動の量産機械式キャリバーは、現代においてもごく限られた存在である。代表例として1969年初代のゼニス・エル・プリメロ系統が知られるが、エル・プリメロが薄型クロノグラフを志向した設計であるのに対し、Cal. 9S85は三針+デイトのシンプル構成で耐久性と精度の長期維持に重点を置く。クロナジー脱進機やコーアクシャル脱進機といった脱進機自体の再設計に向かったロレックス、オメガとは異なり、グランドセイコーは素材科学と半導体加工技術によって伝統的なレバー脱進機を磨き上げる道を選んだ。設計思想の差異は、同じ「精度の高い10振動」へ向かう経路の多様性を示している。
技術解説
振動数と精度の根拠
Cal. 9S85の振動数は36,000vph (毎時36,000振動)、すなわち1秒間に10振動 (5Hz) である。一般的な機械式キャリバーが28,800vph (4Hz) であることを踏まえれば、秒針は1/10秒刻みで進み、運針の滑らかさという視覚的特徴に加え、姿勢差や外乱に対するレート安定性の理論的向上が期待される。テンプの慣性モーメントが小さく、かつ振動周期が短いほど、外的擾乱の周期と共振しにくく、結果として精度が安定するためである。
公称精度は、ケーシング前のムーブメント単体を6姿勢・12日間測定した平均日差で+5/-3秒、これがグランドセイコー規格 (GS Standard) である。これに加え、より厳しい+4/-2秒のスペシャル規格、そして2018年に発表された-1/+3秒のV.F.A.規格と、調整レベルに応じて複数の認定階層が存在する。通常使用時の参考値としては-1/+8秒/日が示される。
SPRON合金の二系統
精度を内側から支えるのは、セイコー独自開発のコバルト・ニッケル系合金「SPRON」である。Cal. 9S85では二系統が用いられる。
ヒゲゼンマイにはSPRON 610が採用される。約5年の開発期間を経たこの合金は、従来比で耐衝撃性を2倍、耐磁性を3倍以上に高めた。シリコン製ヒゲゼンマイのように脆性破壊のリスクを抱えず、職人の手作業による微調整に応える金属合金として設計されている。
主ゼンマイには現行でSPRON 530が搭載される (初期はSPRON 510を採用していたが、後年置換された)。6年を要したこの合金は、10振動が要求する高トルクを供給しつつ、約6%の出力向上と耐食性・耐磁性の維持を両立する。これにより、ハイビートでありながら55時間のパワーリザーブが成立している。
MEMSによる脱進機の再構築
Cal. 9S85のもう一つの心臓部は、MEMS技術を用いて成形された脱進機である。エスケープホイール (ガンギ車) とパレットフォーク (アンクル) は、半導体製造で培われた光リソグラフィとエッチング技術によって、1/10,000mmという加工精度で削り出される。
スケルトン化されたエスケープホイールは従来比で約5%軽量化され、各歯先には微小な油溜まり (オイルリザーバー) が設けられている。これにより潤滑油の保持性が向上し、ハイビート特有の摩耗加速を抑制する設計となっている。パレットフォークも肉抜き設計で約25%の軽量化を達成し、衝撃伝達のロスを低減する。レバー脱進機という伝統的構造の枠組みは保ちつつ、素材と加工精度で最適化するという選択が、Cal. 9S85の設計思想を象徴する。
自動巻機構と諸元
ローターは中心軸にボールベアリングを採用し、5個のボールと3本のネジで支持される独自の固定方式である。巻き上げ機構には諏訪精工舎が1959年頃に開発し、以後セイコー系列の自動巻機構の伝統となる両方向巻き上げ機構「マジックレバー」が継承される。手巻きも可能で、リューズ操作による即時の動力供給を許容する。
ムーブメントの寸法は直径28.4mm、厚さ5.99mm、石数37。耐磁性能は4,800A/m (JIS耐磁時計第1種に相当) とされる。
仕上げと組立
Cal. 9S85のすべては、岩手県雫石町の「グランドセイコースタジオ 雫石」で組立調整される。地板や受け板にはサテン仕上げと面取りが施され、ローターには金色のグランドセイコーのライオン紋章があしらわれる。
組立後の調整は職人の手作業で行われ、ヒゲゼンマイの位置をピンセットで1/100mm単位で操作する技術が、量産機ながら個体差を吸収する余地を生む。MEMSによる極限的な加工精度と、人の手による最終調整──その対比こそが、Cal. 9S85というハイビートキャリバーの輪郭をかたちづくっている。