9SA5
2020年、デュアルインパルス脱進機で10振動と80時間を両立した、グランドセイコーの基幹自動巻
キャリバー9SA5は、2020年にグランドセイコーが発表した自社製の自動巻ハイビートムーブメントである。雫石スタジオで開発され、毎時36,000振動(5Hz)、47石、ツインバレルによる約80時間パワーリザーブを実現する。新設計の「デュアルインパルス脱進機」、緩急針のない「グランドセイコーフリースプラング」、独自の「巻上ヒゲ」、自動巻機構を主輪列と同階層に並べる「水平輪列」を中核とし、60周年限定SLGH002・SLGH003を初搭載とした。レギュラー化されたSLGH005「白樺」、派生に手巻きCal.9SA4、クロノグラフCal.9SC5を擁する、新世代9Sシリーズの基幹キャリバーである。
| Maker | Grand Seiko |
|---|---|
| Reference | 9SA5 |
| Type | Automatic |
| Display | Analog |
| Frequency | 36,000 bph (5 Hz) |
| Jewels | 47 石 |
| Power reserve | 80 h |
| Movement ⌀ | 31.6 mm |
| Hands | Hours, Minutes, Seconds |
| Date | Date |
系譜と歴史
9S系の節目としての誕生
グランドセイコーの機械式キャリバーは、1998年発表のCal.9S55を起点に、2009年の10振動Cal.9S85、2010年の72時間パワーリザーブCal.9S65、2014年のGMT付きCal.9S86へと連なってきた。9S系の20年は、頑強な骨格と入念な組立調整による「実用機械式」の到達点を示すものでもあったが、設計の根幹は1998年当時の延長線上にあった。
ブランド60周年を迎えた2020年、グランドセイコーは9S系の基本設計をゼロから組み直した新世代キャリバーCal.9SA5を発表する。10振動を保ちながら、Cal.9S85では55時間にとどまっていたパワーリザーブを80時間へ伸ばし、同時にムーブメント総厚を約0.8mm(率にして15%)薄くするという、本来であれば両立しにくい目標が掲げられた。雫石の開発陣は約10年の歳月をかけてこれを実現したと公表している。
三つの新機軸
Cal.9SA5の革新は、脱進機・調速機・構造の三つに整理できる。
第一に、新設計の「デュアルインパルス脱進機」。一方向の振動ではガンギ車からテンプへ動力を直接伝え、もう一方向ではアンクル経由で間接的に伝える。スイス式レバーの安全性と、直接衝撃の効率を両立する発想で、ジョージ・ダニエルズが完成させたコーアクシャル脱進機と着想を共有するものの、ガンギ車とアンクルの幾何はグランドセイコー独自であり、MEMS技術で成形された軽量部品が振動への追従を支える。
第二に、緩急針を廃した「グランドセイコーフリースプラング」と、新形状の「巻上ヒゲ」。テンプ外周の4本の調整ねじで慣性モーメントを整え、姿勢差を抑えていく。ヒゲゼンマイは80,000通りのシミュレーションから導いた巻上カーブを採用し、平ヒゲ時代の9S系から大きく踏み出した。
第三に、自動巻機構を主輪列と同じ階層に並べた「水平輪列」。重ねていた構造を平面に展開することで薄型化を達成しつつ、地板と受を厚くする余地が生まれ、テンプ受は両持ち構造となった。重心を下げるためにりゅうずも裏ぶた側へ寄せられ、装着感の質も同時に底上げされている。
9Sシリーズへの展開
Cal.9SA5は単独のフラッグシップにとどまらず、新世代9Sプラットフォームの基礎として位置づけられた。2023年には本機の自動巻機構に縦クラッチ式モジュールクロノグラフを組み合わせたCal.9SC5が「Tentagraph(SLGC001)」へ搭載され、2024年には基幹部品の約40%を再設計した手巻きCal.9SA4が、白樺をモチーフにしたSLGW002・SLGW003で発表された。9SA4は1968年のCal.4520以来となるグランドセイコー初の手巻きハイビートでもあり、9S系における手巻きの系譜を半世紀ぶりに継ぐ存在となっている。
業界における位置
非スイス式レバー脱進機が量産機械式時計に到達した例は、1999年に量産化されたコーアクシャル脱進機以来、本機が二例目とされる(その後ロレックスがDynapulseを発表)。10振動と長時間パワーリザーブの両立は、ショパールの8Hzキャリバーなど少数の例外を除き同時代に類例が乏しく、調速機と脱進機を同時に刷新した点でも稀有な事例である。
技術解説
基本諸元
Cal.9SA5は自動巻(手巻き併用可)、毎時36,000振動(5Hz)、47石、約80時間パワーリザーブ、デイト機能付きのキャリバーである。WatchBase 掲載値で直径31.6mm、厚さは公式公表値の5.18mmであり、これは先代Cal.9S85比で約0.8mm薄い。グランドセイコー独自規格では、ムーブメント単体を6姿勢3温度17日間にわたり測定し、平均日差+5/-3秒以内を保証する。ケーシング後の携帯精度の目安は+8/-1秒以内とされ、これはスイス公式クロノメーター規格(COSC)の5姿勢12日測定より厳しい運用にあたる。
デュアルインパルス脱進機
本機最大の特徴は新設計の脱進機にある。スイス式レバー脱進機がアンクルを介した間接衝撃でテンプを駆動するのに対し、デュアルインパルス脱進機はテンプの片側振動ではガンギ車からテンプへ直接衝撃を与え、反対側の振動ではアンクル経由の間接衝撃を加える。直接衝撃部はマリンクロノメーターのデテント脱進機を、間接衝撃部はレバー脱進機の安定性を継承しており、ロック・解除はスイス式と同様にアンクルが担う。
ガンギ車とアンクルはMEMS(微小電気機械システム)技術で成形され、八枚歯の星形ガンギ車を含む複雑形状を低公差で量産する。グランドセイコーはこれにより脱進機構成部品が従来比で約5%軽量となり、必要な駆動力が下がったと公表している。脱進機効率の向上は、ツインバレルの蓄積エネルギーと相まって、10振動でありながら80時間という長時間駆動を可能にする決定的な要素である。
グランドセイコーフリースプラングと巻上ヒゲ
調速機は、緩急針を持たないフリースプラング方式を採る。テンプ外周に埋め込まれた4本の調整ねじを回すことでテンプの慣性モーメントを微調整し、進み・遅れを整える。緩急針がないことでヒゲゼンマイへの摩擦負荷が軽減され、長期的な精度安定と耐衝撃性が高まる。さらに、ヒゲ末端のスタッドを回転させることで等時性を直接調整できる機構を備え、姿勢差に対するロバスト性を支える。
ヒゲゼンマイには独自の「巻上ヒゲ(オーバーコイル)」を採用する。従来9S系の平ヒゲと異なり、ヒゲ上端を持ち上げて立体的な曲線を描かせることで、伸縮の中心とテンプ回転中心を一致させる古典解法を、80,000通りに及ぶ形状シミュレーションから現代的に再構築したものである。
水平輪列とツインバレル
構造面の刷新が「水平輪列」である。従来の9S系自動巻は主輪列の上に自動巻機構を重ねる立体配置だったが、本機では両者を同じ階層に並列に置く。重ねを解いた分の薄型化が5.18mmという数値に表れ、地板と受を厚くする余裕も得た。テンプ受は両側からふたつの軸で固定する両持ち式で、片持ち式に比べ耐衝撃性に優れる。
動力源は直列連結のツインバレル。第一・第二の香箱を歯車で直接咬合させ、中間車を経て主輪列へ動力を渡す。これにより4番車が香箱と重ならず、薄型化と長パワーリザーブが両立した。デイト送りはMEMS製の特殊形状デイトフィンガーにより、日付が瞬間的に切り替わる。
仕上げと整備性
受の輪郭は岩手山の稜線と雫石川の蛇行を意識した曲線でデザインされ、コートドジュネーブ、地板のペルラージュ、面取り、鏡面仕上げの厚いねじ頭、特注の大型穴石といった伝統的高級機の文法が踏襲される。受を細かく分割した設計は美観上の効果に加え、不具合箇所の受のみを脱着できる整備性の向上にも寄与している。