1960年、「理想の時計」の出発点
グランドセイコー機械式の物語は、1960年、諏訪精工舎(現セイコーエプソン)が発表した一本の腕時計から始まる。のちに「ファースト」と呼ばれるこのモデルは、手巻のCal. 3180を搭載し、クロノメーター基準を満たす精度をうたった。当時、高級時計はスイスの独占領域であり、日本製はあくまで実用機としか見なされていなかった。グランドセイコーは、その既成概念に対し「精度・耐久・視認性・美」という規範を掲げて登場したとされる。
1960年、「理想の時計」を掲げて始まり、9SA5へと結実したグランドセイコー機械式の系譜
グランドセイコー機械式の物語は、1960年、諏訪精工舎(現セイコーエプソン)が発表した一本の腕時計から始まる。のちに「ファースト」と呼ばれるこのモデルは、手巻のCal. 3180を搭載し、クロノメーター基準を満たす精度をうたった。当時、高級時計はスイスの独占領域であり、日本製はあくまで実用機としか見なされていなかった。グランドセイコーは、その既成概念に対し「精度・耐久・視認性・美」という規範を掲げて登場したとされる。
1959年、セイコーグループは諏訪精工舎と第二精工舎の二社に開発を競わせる体制を整え、以後グランドセイコーは二社体制で磨かれていく。1960年代を通じて両社はスイスの天文台クロノメーター・コンクールに参加し、上位入賞を果たした。この経験は、1968年の61GS(国産初の自動巻ハイビート、毎時36,000振動)や、手巻ハイビートの45GSへと結実する。
意匠の確立も同じ時期に進んだ。1967年、平面と二次曲面のみで構成されたケース、逆斜面のケースサイド、ザラツ研磨による歪みのない鏡面、多面カットの剣型針とインデックスを備えた44GSを第二精工舎が発表する。デザイナー田中太郎が整理したとされるこの意匠の原則が、現代に至るグランドセイコー・スタイルの出発点となった。
1969年12月、セイコーは世界初のクォーツ式腕時計アストロンを発表する。グループから発した革新が、皮肉にも機械式の存在意義そのものを揺るがすことになった。日本市場が急速にクォーツへ傾く中、グランドセイコー機械式は1975年に生産を終える。ブランド名自体は1988年にクォーツモデルで復活し、1993年にはクォーツ専用設計のCal. 9Fが投入された。機械式グランドセイコーは、約20年の休眠期に入っていた。
機械式の本格復活は、1998年、Cal. 9S55と9S51の発表によってもたらされた。開発と組立を担ったのは、第二精工舎系列の盛岡セイコー工業(岩手県雫石)である。仕様は毎時28,800振動(4Hz)、パワーリザーブ約50時間。発表に合わせて、ブランドはスイス・クロノメーター基準を上回る「グランドセイコースタンダード」を更新し、6姿勢・3温度・17日間にわたる検定で平均日差+5秒〜−3秒を保証する体制を整えた。9Sは単なる新キャリバーではなく、以後の現代機械式グランドセイコー全系統の祖となる。
その後、GMTを加えた9S56や、72時間駆動の9S67などが加わる。2009年には新型ハイビートCal. 9S85が発表され、毎時36,000振動を現代仕様で復活させた。2014年のハイビートGMTは、ジュネーブ時計グランプリで部門賞を受賞したとされる。
2020年、ブランド60周年に合わせて発表されたのが、新世代キャリバー9SA5である。毎時36,000振動(5Hz)を保ちながら、従来のハイビート9S8X系の55時間を80時間へ延ばし、厚さも5.18mmに抑えた。中核技術は、自社開発の「デュアルインパルス脱進機」、フリースプラング・テンプと巻き上げヒゲ、直列に配したツインバレル、横に並べた輪列である。組立と調整は岩手県雫石のグランドセイコー Studio Shizukuishi が担う。9SA5の初搭載機は、イエローゴールドの60周年記念モデルSLGH002である。
2023年、Watches and Wonders で発表されたSLGC001 Tentagraphは、ブランド初の純機械式クロノグラフであった。搭載するCal. 9SC5は9SA5をベースに文字盤側のクロノグラフ・モジュールを組み合わせ、毎時36,000振動、72時間パワーリザーブ、垂直クラッチ、コラムホイールを備える。名称は「Ten beats / Three days / Automatic / chronoGRAPH」の頭字を組み合わせたものとされる。
現在のグランドセイコー機械式は、3日巻きの9S6X系、ハイビートの9S8X系、新世代9SA5、その手巻派生9SA4、そしてクロノグラフ9SC5で構成される。意匠面でも、1967年の44GSを起点とするグランドセイコー・スタイルが、2020年に再定義された「Evolution 9」スタイルへと更新され、ヘリテージ、エレガンス、Evolution 9の各コレクションを横断して継承されている。1960年に掲げられた「理想の時計」という規範は、65年を経たいまも生きている。
グランドセイコー機械式の設計思想は、1960年に掲げられた四つの規範—精度、耐久、視認性、美—と、1967年に確立された「グランドセイコー・スタイル」によって規定される。
意匠の核は、デザイナー田中太郎に結び付けられる「燦然と輝く腕時計」という構想にある。三次曲面を避け、平面と二次曲面のみでケースを構成し、面と面の境界には鋭い稜線を立てる。ザラツ研磨によって歪みのない鏡面を作り、多面カットされた剣型針とインデックスが光を捉える。逆斜面のケースサイドが影を落とし、12時インデックスは他より広く取って視認性の基準点とする。狙いは装飾ではなく、光と影によって時刻を読みやすくし、同時に高精度の存在感を視覚化することにある。日本の屏風や障子に通じる、平面が生む陰影の美学が背景にある。
機構側の規範も一貫している。1998年の9S5Xは毎時28,800振動と50時間駆動を堅実に両立させ、現代版「グランドセイコースタンダード」(平均日差+5/−3秒、6姿勢・3温度・17日間)を導入した。その後、9S6Xで72時間、9S8Xで毎時36,000振動を達成し、2020年のCal. 9SA5でデュアルインパルス脱進機、フリースプラング・テンプ、ツインバレルを組み合わせて高振動と80時間駆動を同時に成立させた。9SC5(Tentagraph)はこの基盤の上にコラムホイールと垂直クラッチを加えたものである。
外装と機構の双方が「実用の理想形」という単一の規範を共有する点に、この系譜の本質がある。2020年に再定義された「Evolution 9」スタイルは、装着感と視認性を現代の用途に最適化するためのアップデートと位置付けられ、田中太郎が定めた原則を覆すものではなく、その上に重ねられた新層と理解されている。
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