設計思想
月面着陸を祝う、最初の番号入りスピードマスター
1969年7月、ニール・アームストロングとバズ・オルドリンは月面に降り立った。二人がこのミッションで携行したのはスピードマスターST 105.012、司令船に残ったマイケル・コリンズはST 145.012だったとされる。NASAの公式装備となった時計が、人類の月面到達に立ち会ったのである。
オメガがこの出来事に応えた形がBA 145.022だった。本機は店頭で売り出す新製品として構想されたのではない。宇宙飛行士への感謝を示す贈呈品が出発点にある。1,014本に通し番号を振るという手法も、この性格から来ている。スピードマスターの歴史で、番号入りの限定生産はこれが初めてであった。後年あまたの記念モデルを生むシリーズにとって、本機はその最初の一本にあたる。
スチールの145.022との連続と断絶
本機は新規開発のモデルではない。前年に登場したスチール製の145.022を土台とし、同じCal.861を載せている。ケースの基本形も、クロノグラフとしての機能も共有する。変わったのは素材と、それによって生じた時計の意味である。
スチールの145.022は、過酷な環境で使うための計測器であった。その道具を金無垢に置き換えると、時計は実用の文脈から離れて記念の対象へと移る。本機は任務の道具ではなく、任務を讃えるためのものとして位置づけられる。
一方で、中身を変えなかったことにも意味がある。月へ行った時計と同じ機構を内包することで、本機は単なる装飾品ではなく、実機の延長線上にとどまった。形と機構を保ち、素材だけを替えるという構図は、以後のスピードマスターの記念モデルに繰り返し現れる。
記念モデルの原型として
本機の意匠は、のちの金無垢スピードマスターの参照点となった。1980年には、同じく金無垢のBA 345.0802が登場したとされる。黒ベゼルとシースルーの裏蓋を備え、Cal.861の装飾版であるCal.863を見せる仕様と伝わる。ケースバックには「Apollo XI 1969」の文字が引き継がれている。
より直接的な後継は、アポロ11号50周年にあたる2019年3月に発表された310.60.42.50.99.001である。オメガ独自の18Kムーンシャインゴールドを用い、バーガンディのセラミックベゼル、オニキスのインデックス、細身のブレスレットを本機から受け継いだ。限定数も同じ1,014本とされ、月面を模した箱の意匠まで再解釈された。ムーブメントは新世代のCal.3861である。本機の姿は、50年を経てほぼそのまま再び世に出たことになる。
意匠分析
本機の骨格は、1968年に登場したステンレススチールの145.022と共通する。42mmの左右非対称ケースに、リューズとプッシャーを守るガードを備える構成も同じである。異なるのは素材で、ケース、ブレスレット、文字盤のすべてが18Kイエローゴールドで作られた。オメガの型番でBAの接頭辞は、この金無垢ケースを示すものとされる。
文字盤は金メッキではなく、無垢の金板である。表面にはブラッシュ仕上げが施される。インデックスにはブラックオニキスを収めた角型のアプライドマーカーが並ぶ。スチール版の夜光入りバーインデックスとは発想が異なり、金と黒の対比で時刻を読ませる。針も黒く仕上げられたとされ、金の地に対する輪郭を保っている。6時位置のスイス表記の両側には「OM」の刻印が入る。フランス語で無垢金を意味する「Or Massif」の略で、文字盤の素材そのものを示す符号である。
ベゼルインサートはバーガンディのアルマイト処理アルミニウムである。黒が標準だったスピードマスターにおいて、この色は本機を一目で識別させる要素となった。金のケースと黒ベゼルを組み合わせれば道具としての印象が残る。赤みのある色を選んだことで、全体は記念品としての温度を帯びた。
ブレスレットは専用設計の金無垢である。当時のスチール版に用いられた1039や1171とは別物で、20mmのラグ幅から先端に向けて大きく絞られ、クラスプ部の幅は14mmまで細くなるとされる。重い素材を細身の末端でまとめることで、手首上の印象を軽くしている。
ムーブメントはスチール版と同じCal.861である。オメガと同じSSIHグループに属したレマニアの設計を基にした手巻きクロノグラフで、1968年にコラムホイール式のCal.321を置き換えた。切り替えをカム式とし、振動数を毎時21,600振動 (3Hz) に高めている。グループ内供給の量産機構を、金無垢の記念モデルにそのまま載せた点に本機の性格が表れる。裏蓋はソリッドで、ムーブメントは見えない。
付属の箱も本機の一部として設計された。立方体の箱の表面には、月面を模したレリーフが施されている。
系譜と歴史
BA 145.022の起点は、1969年7月のアポロ11号による月面着陸である。オメガはその4か月後、同年11月25日にテキサス州ヒューストンで「アストロノート・アプリシエーション・ディナー」を催し、本機をNASAの宇宙飛行士に贈呈した。この晩餐会が、本機の事実上の発表の場となった。
限定数は1,014本で、全数に通し番号が与えられた。No.1はリチャード・ニクソン大統領、No.2はスピロ・アグニュー副大統領に用意されたが、両者とも公職上の規定から受領を辞退したと伝わる。続く26本は飛行士に贈られたと伝わる。帰還直後で隔離中だったアポロ12号の乗員は、この場に出席できなかったとされる。飛行士向けの個体のケースバックには、受領者名とミッション名、そして「to mark man's conquest of space with time, through time, on time」の一文が刻まれた。
贈呈は1969年で終わらなかった。1971年から1973年にかけては、アポロ14号から17号に搭乗した飛行士にNo.1001〜1008が贈られた。No.33〜1000が市販に回され、No.1009〜1014は各界の人物に贈られたとされる。飛行士向けの番号の細かな割り当てには、資料間で揺れがある。
市販された個体のケースバックには、「The first watch worn on the moon」と「Apollo XI 1969」が横書きで刻まれる。この市販用ケースバックには2つの仕様が確認されている。初期は簡素な刻印のみで、後期は刻印にバーガンディ色が充填された。現存個体の多くは後期仕様とされる。
生産期間は1969年から1973年で、現行品ではない。
出典
本文の執筆にあたって参照した資料。閲覧日は内容を確認した日を示す。