設計思想
1. 1970年の授賞と、33年後の限定モデル
1970年4月、アポロ13号は月へ向かう途上で酸素タンクの爆発事故に見舞われた。月面着陸は断念され、乗員は着陸船を救命艇として地球への帰還を目指した。電力節約のため多くの機器が停止されるなか、軌道修正の噴射時間を計るためにスピードマスターが使われたと伝わる。
同年10月5日、オメガはこの貢献を理由にNASAのシルバー・スヌーピー賞を受けた。スヌーピーは1969年のアポロ10号で着陸船の呼称に用いられ、NASAの有人飛行の安全を見守る象徴となっていた。賞は宇宙飛行の安全と成功に顕著な貢献をした個人や組織に贈られるもので、現在も授与が続いている。
Ref. 3578.51.00は、この授賞を記念して2003年に発表された。33年目という区切りの悪い年に登場した理由は、公式には説明されていない。限定数の5,441本は、アポロ13号の飛行時間142時間54分41秒のうち「54分41秒」に由来するとされる。
2. 標準機との距離
本機は新設計ではなく、当時のカタログモデルRef. 3570.50.00を土台とした派生機である。ケース、ムーブメント、ブレスレットは共有され、手が加えられたのは文字盤の一部と裏蓋に限られる。
それでも主題の選び方には明確な違いがある。それまでのムーンウォッチの記念モデルは、アポロ11号の月面着陸を祝うものが中心だった。本機は、着陸を果たせずに生還したミッションと、そこで果たした計時の役割に焦点を当てた。成功の記念ではなく、危機を乗り越えた記録を時計に刻んだ点が、このRefを他の記念モデルから分けている。
3. 静かな発表と、遅れてきた評価
発表当初、本機は大きな話題にならなかったとされる。新作を広く伝える手段が今ほど整っていなかった時代であり、文字盤に漫画のキャラクターを置く意匠も受け手を選んだ。
評価が変わったのは、アポロ13号とシルバー・スヌーピー賞の関係が愛好家の間で共有されてからである。スヌーピーは遊び心の装飾ではなく、ブランドの宇宙史における具体的な出来事の徽章として読まれるようになった。
4. 後続する二つの記念モデル
本機が開いた主題は、その後二つのRefに引き継がれた。2015年のRef. 311.32.42.30.04.003と、2020年のRef. 310.32.42.50.02.001である。前者はアポロ13号45周年を記念し、1970年にちなむ1,970本の限定となった。後者は50周年を記念するモデルである。いずれも明るい色調の文字盤を採用しており、黒文字盤に青いスヌーピーを置いた本機とは印象が大きく異なる。3578.51.00は、この系譜の原型として位置づけられる。
意匠分析
本機の外装は、当時の標準ムーンウォッチRef. 3570.50.00と同じ構成をとる。ステンレススチールの非対称ケースは標準機と同じ42mm径で、リューズとプッシャーを守るガードも継承された。風防は樹脂系のヘサライトで、1960年代の有人宇宙飛行で採用された仕様を受け継ぐ。黒いベゼルにはタキメーター目盛りが刻まれる。
変更点は二つに絞り込まれた。一つは9時位置のスモールセコンドである。インダイヤルの中に、NASAのシルバー・スヌーピー賞に由来する「Eyes on the Stars」のパッチ意匠が収まる。宇宙服をまとったスヌーピーを青地に描いたもので、黒とホワイトで構成された文字盤の中で唯一の色彩となる。秒針はこの意匠の上を常に回り続けるため、スヌーピーは時計が動いている証として一分ごとに針の下をくぐる。
もう一つは裏蓋である。標準機の刻印入りの裏蓋に代え、中央にサファイアクリスタルの円盤を嵌め込み、その内側に同じパッチ意匠を大きく転写したとされる。周囲には「The Moon Watch」「Snoopy Award」の文言と、限定番号が刻まれる。ムーブメントを見せるための窓ではなく、意匠を見せるための窓として使われている点が、このRef固有の選択である。
ムーブメントは手巻きクロノグラフのCal.1861で、毎時21,600振動(3Hz)で駆動する。月面で使われたキャリバーの系譜に連なり、レマニア社由来の設計を源流とする。オメガ公式はロジウムメッキ仕上げを特徴として挙げている。この機械は1990年代後半から標準機に積まれてきたもので、本機のために手が加えられたとする記録は見当たらない。
30分積算計と12時間積算計、夜光入りのバトン針とインデックスも標準機と変わらない。ブレスレットはステンレススチール製で、フォールドオーバー式のクラスプを備える。記念性を文字盤の小さな円と裏蓋の円の二か所に集約し、計器としての顔を崩さなかった。限定モデルでありながら、ムーンウォッチの文法から外れない抑制が本機の設計の核にある。
系譜と歴史
Ref. 3578.51.00は、2003年に5,441本の限定モデルとして発表された。アポロ13号の帰還とシルバー・スヌーピー賞の授与から33年目にあたり、周年を掲げた発表ではなかった。発表の場や正確な月日について、公式の記録は確認できていない。
WatchBaseは生産期間を2003年から2004年としている。限定数はこの短い期間で製造されたと見られ、2004年付の保証書を伴う個体も流通記録に残る。各個体の裏蓋には「0000/5441」の形式で通し番号が刻まれる。付属品として、スヌーピーの証明書が同梱された個体があるとされる。
生産期間中の仕様変更について、文字盤や裏蓋の刷り分けなど、公式に記録された変更は確認できていない。WatchBaseは本機の社内ケース番号をST 145.0031と記載しているが、公式資料での裏付けは得られていない。
限定数の製造を終えた後、スヌーピーを戴くスピードマスターはしばらく途絶えた。2015年、アポロ13号45周年のRef. 311.32.42.30.04.003が登場する。本機はここで初めて「初代」として語られるようになった。2020年には50周年のRef. 310.32.42.50.02.001が続き、系譜は3代となった。
本機はすでに生産を終えている。オメガ公式サイトの製品ページでは取り扱い終了と表示され、技術仕様のみが公開されている。
出典
本文の執筆にあたって参照した資料。閲覧日は内容を確認した日を示す。