ウルス・シルト
教師から転じてグレンヘンにエボーシュ工場を興し、エテルナとETAの源流を築いたスイスの時計産業家(1829-1888)
- BORN
- 1829年
- DIED
- 1888年
- BRAND
- エテルナ — 1856年創業
- MODELS
- 5 本
概要
ウルス・シルト(Urs Schild、1829-1888)は、スイス・ゾロトゥルン州グレンヘン生まれの時計産業家である。教師から転じ、1856年に医師ジョセフ・ジラールとエボーシュ工場「ジラール&シルト」を興した。早くから部品の機械生産を進め、1876年には完成時計まで自社で作る一貫生産へ移る。この工場は没後にエテルナとなり、1932年にはムーブメント部門がETAとして分かれた。州議会と連邦の国民議会でも議席を持ち、グレンヘンの時計産業を形づくった創業者の一人に数えられる。
生涯
01教壇から工場の帳簿へ
ウルス・シルト(Urs Schild)は1829年8月31日、スイス・ゾロトゥルン州のグレンヘンに生まれた。父アントンは糸の漂白や大工仕事を営んだ。父の作業場では姉妹も時計の仕事に就き、シルトもそこで部品加工に触れている。父は医師ジョセフ・ジラールとともに、グレンヘンの時計産業を興した人物に数えられる。
シルト自身は教師として育ち、1857年まで学校で教えた。フルーメンタールなど近隣の学校を経て、グレンヘンの教壇に立った。その間、郡の廷吏も兼ねている。1852年からは副業として、村に新設されたエボーシュ工場の帳簿係と書記を務めた。工場の名は「ジラール兄弟&クンツ」(Girard Frères & Kunz)である。エボーシュとは、地板や受け、輪列からなる未完成のムーブメントを指す。教師の副業が、時計産業へ入る入口になった。
02ジラール&シルトの創業
この工場は長く続かず、1856年に破産する。シルトはジラールと組んでこれを買い取り、「ジラール&シルト」の名で事業を引き継いだ。新会社の発足は同年11月7日と記録され、「Dr. Girard & Schild」の名でも知られる。ジラール(Josef Girard、1803-1869)は地元の医師で、シルトより26歳年長だった。1852年に兄弟とともにこの工場を開いた当事者でもあった。フライブルクとウィーンで医学を修め、グレンヘンの村長も務めた自由主義派の政治家である。この工場が、後のエテルナの起点である。
1864年には、時計職人の修業を積んだ末弟アドルフ(Adolf Schild、1844-1915)が入社した。アドルフはのちに技術部門の長を務めた。1866年にジラールが会社を離れると、シルトはその持ち分を引き取り、単独の所有者となった。持ち分の清算と単独所有の年は、1868年とする資料と1870年とする資料がある。
03工場主として、議員として
事業を広げたシルトは、1870年に第二工場を建てた。並行して公職にも就き、1868年からは自由主義派の議員としてゾロトゥルン州議会に席を置いた。1882年には連邦議会の国民議会に選ばれ、1887年まで務めた。教師出身らしく、グレンヘンの学校委員会では委員長も務めた。
工場の経営と公職を並行させた期間は、20年近くに及ぶ。国民議会を退いた翌年の1888年4月25日、シルトはグレンヘンで世を去った。58歳だった。工場は一族に引き継がれ、その歩みは次の世代へ続いていく。
業績・代表作
01機械で作るエボーシュ
シルトの出発点は、完成時計ではなくエボーシュの製造だった。19世紀半ばのスイスでは、部品を在宅の職人に割り振って組み上げるエタブリサージュが根強かった。ジュラの谷々には18世紀から分業の網が張られていた。一方のグレンヘンで時計づくりが本格化するのは1850年代で、後発の産地にあたる。
後発の工場が選んだのは、手仕事の分業ではなく機械による部品生産である。シルトは1861年、エボーシュ部品の機械生産に着手した。1863年には水車に代えて蒸気機関を動力に据えたとされる。ブランド側は、水力と蒸気で動く自動製造機の導入を1870年としている。同じ資料によれば、工場は粗仕上げのエボーシュと、組み立てを終えたムーブメントの両方を出荷した。一時は300人近い職工を抱え、アンクル式やシリンダー式の脱進機を持つエボーシュを作った。
02部品から完成時計へ
1870年代に入ると、エボーシュは供給が需要を上回り、取引価格が下がった。ブランドの記述によれば、シルトはここで、エボーシュからケースまで自社で作る道に生き残りを見いだしたという。1876年、工場は完成時計を手がけるマニュファクチュールへ転じ、グレンヘンで一貫製造した最初の懐中時計を出荷した。部品を卸すだけの立場では、市況の波をそのまま受ける。最終製品まで手がければ、利益の源を自社の内側に持てる。転換の狙いは、そう読み取れる。
同じ1876年以降、工場は米国に倣って自動化と量産を進めたとされる。互換部品と専用機械で時計を作るアメリカン・システムは、1850年代の米国で育った方式である。シルトの工場は、その考え方を部品から完成品までの工程に取り込もうとした例として読める。
03工程を一つの工場に束ねる
シルトの業績を貫くのは、工程を外に散らさず一つの工場に束ねる発想である。分業網の外から参入した事業者にとって、部品を機械でそろえ、組み立てまで抱えることは、品質を自社で管理する手段でもあった。時計職人の弟アドルフを技術の要に置いた体制が、その方針を家族経営の内側から支えた。グレンヘンがエタブリサージュではなくエボーシュ製造を軸に育ったのは、シルトの工場の影響が大きいとされる。
もう一つの特徴は、工場の外での働きである。州と連邦の議席に加え、1875年から没年まではゾロトゥルン州の商工業協会で役員を務めたとされる。産業の担い手が地域の政治と経済団体に席を持つ形は、時計の町として育つグレンヘンの姿とも重なる。
完成時計と部品という二つの事業は、彼の工場の中で並んで育った。両者が別々の会社として歩み出すのは、シルトの没後のことである。
評価・後世への影響
01一族と二つの系譜
シルトの没後も、工場は一族の手で続いた。1899年からは、息子テオドール(Theodor Schild、1870-1950)が経営を率いる。テオドールはチューリッヒの連邦工科大学で機械工学を学んだ技術者だった。1906年には社名が「Eterna-Werke, Gebrüder Schild & Co.」となった。エテルナの名が文字盤に現れるのは1890年前後とされ、本人がこの名を付けたとは確かめられない。
弟アドルフは1896年に独立し、エボーシュ会社A.シルト社を興した。同社は息子たちの代に世界最大級のエボーシュ工場へ育ったとされ、1978年にETAへ統合される。一方エテルナは1932年、世界恐慌後の業界再編の中でムーブメント部門をETAとして切り離した。兄弟がそれぞれ育てた二つの工場は、ETAの名の下で再び一つになった。
現在のETAはスウォッチグループのムーブメント製造会社で、本社をグレンヘンに置く。1980年代初めに登場したスウォッチのムーブメントも、ETAが手がけた。本社が面するシルト=ルスト通りは、彼の通称シルト=ルストにちなむとされる。同社は自らの起点を1793年のフォンテーヌメロンの工房とし、シルトの工場はETAに合流した源流の一つにあたる。教師から転じた一人の創業者の工場は、名を変えながらスイス時計産業の供給網の中に残っている。
この人物が関わったモデル
出典
本文の執筆にあたって参照した資料。閲覧日は内容を確認した日を示す。
- 01 公式 ETA - The Motorist of Time
- 02 公式 History | Manufacture Horlogère Suisse | ETA SA
- 03 公式 Eterna celebrates 160 years
- 04 専門メディア Schild, Urs (Neue Deutsche Biographie 22, 2005, S. 755-756)
- 05 専門メディア Girard, Josef
- 06 専門メディア Schild, Adolf
- 07 専門メディア Schild, Theodor
- 08 専門メディア Schild, Urs
- 09 専門メディア Mécanisme d'horloge (mouvement de montre mécanique ETA 2390) et son présentoir Donzexa
- 10 専門メディア Josef Girard
- 11 専門メディア Urs Schild-Rust
- 12 専門メディア 160 years: something to celebrate!