世界恐慌と時計産業
好況に沸いた時計産業は、1929年の世界恐慌で需要の急減に直面する——危機が促した企業統合が、後のグループ化の遠い起点となった。
概要
Overview1929年10月の株価暴落に始まる世界恐慌は、生産の大半を輸出に頼るスイス時計産業を直撃した。輸出額は1929年の約3億700万フランから1932年には約8600万フランへ落ち込み、数量も半分以下に減る。奢侈品である時計の需要は真っ先に細り、操業を縮める工房や身売りする会社が相次いだ。米国のウォルサムやエルジンも同じ逆風にさらされ、衰退を早めた。スイスでは過当競争を抑えるため、政府と銀行の支援のもとで持株会社が設けられ、ASUAGやSSIHといった企業連合が生まれる。この再編は、後にスイス時計産業を貫くグループ構造の遠い起点となった。
背景
Background20世紀初頭のスイス時計産業は、生産の大半を輸出に依存していた。国内市場は小さく、稼ぎは海外の景気に大きく左右された。第一次大戦後の1920年代には腕時計の普及が進み、業界は好況に沸く。だが、その繁栄は脆さと隣り合わせだった。
産業は無数の小工房と部品メーカーに分かれていた。ムーブメントの素材であるエボーシュを作る会社、それを仕上げる会社、ケースや文字盤を担う会社が分業する。各社が競って増産すれば過当競争に陥りやすく、価格は崩れ、品質にもばらつきが出た。値崩れと粗製濫造は、業界全体の評判を損ないかねなかった。
この弱さに、手が打たれていなかったわけではない。1924年にはスイス時計業連合会が設けられ、生産過剰の調整が試みられる。1926年には主要なエボーシュ製造各社をまとめてエボーシュSAが設立され、共倒れの競争を避けようとした。一定の効果はあったが、輸出に頼り需要の変動に弱いという体質までは変えられなかった。
出来事
The Event1929年10月、ニューヨークの株式市場が暴落した。暗黒の木曜日に始まる混乱は世界恐慌へと広がり、各国の購買力を奪っていく。奢侈品である時計は、生活必需品より先に支出を切り詰められる対象だった。
打撃は数字に表れた。スイスの時計輸出額は、1929年の約3億700万フランから1932年には約8600万フランへと落ち込んだ。数量でみても、2080万個から820万個へと半分以下に減った。これに為替の問題が重なる。英ポンドや米ドルが相次いで切り下げられるなか、スイスは金本位制にとどまった。割高になったフランがスイス製品の競争力を奪い、需要の崩壊と通貨高という二つの重しが輸出企業にのしかかった。
各社の現場は厳しかった。生産がほぼ止まり、修理だけで命脈をつなぐ工房もあったと伝わる。経営が行き詰まり、他社へ身売りする会社も相次いだ。
この危機は、業界の再編を一気に進めた。1930年、オメガとティソが中心となって持株会社SSIHが設けられ、後にレマニアなども加わる。翌1931年には、政府とスイスの銀行の支援を受けてASUAGが設立された。狙いは、過当競争を抑え、生産と価格に枠をはめ、雇用を守ることにあった。1934年には連邦の法令が時計業のカルテル協定に法的な裏づけを与え、生産の配分や新規参入の制限が制度化された。輸出の底は1932年ごろで、本格的な回復はフランが切り下げられる1936年を待つことになる。
同じ逆風は大西洋の対岸も襲った。米国ではウォルサムやエルジンが苦境に陥る。とりわけウォルサムは、小型化する腕時計用の新しい設備への投資が遅れ、回復の機を逃していった。
意義
Significance恐慌は、時計需要のもろさを露わにした。時計は奢侈品であり、不況になれば真っ先に買い控えられる。輸出に頼るスイスにとって、景気に左右されやすい需要は構造的な弱点だった。
もっとも、危機は破壊だけをもたらしたわけではない。過当競争を抑えるための再編が、結果として業界の骨格を作り替えた。SSIHとASUAGという二つの企業連合は、恐慌を生き延びるための応急策として生まれたが、その枠組みはその後も残り続ける。両者は1983年に統合され、やがてスウォッチ・グループへと連なっていく。恐慌期の企業統合は、現代まで続くスイス時計産業のグループ構造の遠い起点となった。
カルテルと政府の保護に支えられた体制は、産業を安定させた一方で、変化への対応を鈍らせる面も併せ持った。この保護的な構造は、数十年後にクォーツという技術革新が押し寄せたとき、別の試練として問い直されることになる。
対照的に、米国の時計産業は同じような大規模な再編に向かわなかった。腕時計への転換と設備投資の遅れも重なり、かつて量産で世界をリードした産業は、恐慌と続く戦争を経て地盤を失っていく。危機への構え方の違いが、20世紀後半のスイス優位と米国の退潮を分ける一因となった。