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PERSON · 1841–1916

フローレンタイン・アリオスト・ジョーンズ

Florentine Ariosto Jones
創業者

アメリカ式機械生産とスイスの職人技の融合を志し、1868年にシャフハウゼンでIWCを創業した米国人技師

01 — 概要 / OVERVIEW

フローレンタイン・アリオスト・ジョーンズ(Florentine Ariosto Jones、1841-1916)は、米国ニューハンプシャー州生まれの時計技師である。ボストンのE・ハワード社で経験を積んだのち、米国式の機械生産技術とスイスの手仕事を融合させる構想を掲げ、1868年にスイス・シャフハウゼンで国際時計会社(International Watch Company、現IWC)を創業した。経営難により1875年に会社を離れたが、彼が遺した「ジョーンズ・キャリバー」と工業生産の思想は、IWCの出発点として現在まで継承されている。

02 — Life

生涯

A life in time

1. ニューハンプシャーからボストンへ

ジョーンズは1841年2月15日、米国ニューハンプシャー州ラムニーで生まれた。父はソロモン・ジョーンズ、母はラビニア・クレイグ・ジョーンズ。少年期の記録はわずかしか残っておらず、初期の修業の詳細は明らかではない。コンコードの時計師のもとで徒弟修業を積んだのち、マサチューセッツ州ロックスベリーのE・ハワード社(E. Howard Watch & Clock Co.)に勤めたと伝わる。同社は当時の米国を代表する時計製造会社のひとつであり、機械化された大量生産による懐中時計づくりの先進地であった。

1861年に南北戦争が勃発すると、ジョーンズは第13マサチューセッツ歩兵連隊A中隊に時計職人として入隊し、ゲティスバーグを含む各地の戦闘に従軍した。1864年8月に二等兵として除隊し、E・ハワード社へ戻ったと伝えられる。

2. 渡欧と創業

ハワード社で経験を積みながら、ジョーンズはひとつの構想を温めていた。米国で確立されつつあった標準化された機械生産方式と、スイスの家内工業を支える熟練職人の手仕事を、ひとつの工場の中で統合できないかという発想である。当時のスイスでは賃金が低く、熟練の労働力が豊富に存在していた。1867年、ジョーンズはこの構想を実行に移すべく欧州へ渡る決断をする。

翌1868年、もう一人の米国人時計師チャールズ・キダー(Charles Kidder)とともにスイス各地を視察した後、ジョーンズはライン川沿いの町シャフハウゼンを工場の地に選んだ。フランス語圏ジュラの時計業界からは工場制への警戒があったが、ライン川の水力と地元実業家ハインリヒ・モーザー(Heinrich Moser)による水力施設がジョーンズの計画と合致した。同年、彼は「F・A・ジョーンズ商会」として事業を立ち上げる。1874年1月31日には「国際時計会社(International Watch Company)」として正式に登記され、米国市場向けの販売拠点はニューヨーク・メイデンレーン5番地に置かれた。

3. 退陣と帰国

事業は当初こそ順調だったが、米国市場向けの輸出は期待を下回り、追加投資と設備拡張が経営を圧迫した。出資元のスイス銀行団と取締役会の間でジョーンズの方針をめぐる対立が深まり、1875年には破産が宣告される。翌1876年、ジョーンズはシャフハウゼンを離れ、米国へ戻った。会社は1880年、地元シャフハウゼンの実業家ヨハネス・ラウシェンバッハ(Johannes Rauschenbach)が28万スイスフランで引き取り、ラウシェンバッハ家のもとで再建が進められていく。

4. 晩年と没後

帰国後のジョーンズはニューヨークなどを経てマサチューセッツ州サマヴィルに落ち着き、時計機構と蒸気機関の発明に取り組んだ。1880年代にはマサチューセッツ州モールデンを拠点に、圧力調整器や記録式圧力計、蒸気ボイラーに関する特許を取得している。1882年8月、ニューハンプシャー州マンチェスターでスーザン・P・ジョーンズ(Susan P. Jones)と結婚した。子はいなかったと伝わる。1916年10月18日、サマヴィルのアダムス・ストリート43番地で没した。遺体は火葬され、同月21日にマサチューセッツ州ケンブリッジのマウント・オーバーン墓地に納められた。生前を写したと確実に判定できる写真は今もほとんど残っていない。

03 — Work

業績・代表作

What this person built

1. 「アメリカ式」生産とスイス職人技の融合

ジョーンズの業績の核は、特定の時計の発明よりもむしろ、製造方式そのものの構想にある。彼が掲げた創業の方針は、「アメリカ式の機械生産のすぐれた点と、スイス職人のより熟練した手仕事を組み合わせる」というものだった。米国ではすでにウォルサムやエルジンが互換性のある部品を機械で量産する体制を確立しており、ジョーンズはこの方式をスイスの伝統的な手仕事と結びつけようと試みた。

シャフハウゼンに建てられた工場は、ライン川の水力をシャフトと長い動力伝達ケーブルで内部に引き込み、機械加工の動力源とした。職人たちは仕上げと組立を担当し、米国市場向けの懐中時計ムーブメントを集中的に生産する。この垂直統合された工場制こそが、ジュラ地方の家内工業を中心とするスイス時計産業の中で異彩を放つ、ジョーンズの構造的な発明であった。

2. ジョーンズ・キャリバー

ジョーンズが自ら手がけた最初のムーブメントは、後世に「ジョーンズ・キャリバー」と呼ばれる懐中時計用のキャリバーである。1872年頃から1876年頃にかけて製造され、IWC収集家マイケル・フリードバーグの推計によれば、約2万6,000個が生産されたと伝わる。3/4プレート構造、米国式の繊細なダマスキーニング装飾、そして特徴的な長い緩急針(レギュレーター)を持ち、後に「ジョーンズ・アロー」と呼ばれるこの長いインデックスは、規制ピンを微細に調整するための実用的な工夫に由来していた。当時の米国式高級懐中時計に共通する設計言語をスイス製ムーブメントに移植した点に、ジョーンズの設計思想がよく表れている。

このムーブメントは2005年、IWCが創業者を顕彰する限定モデル「ポルトギーゼ F・A・ジョーンズ」(Ref. 5442)で復刻された。1936年以来のIWCの定番懐中時計用Cal. 98をベースに、3/4プレートとジョーンズ・アロー型レギュレーターを再現したCal. 98290が搭載されている。

3. 業界における位置づけ

ジョーンズ自身は経営的には失敗を喫し、IWCの財務基盤を確立できないままシャフハウゼンを去った。しかし、彼が定着させた「シャフハウゼンに工業生産型の時計工場を置く」という選択は、その後のIWCの性格を決定づけている。フランス語圏ジュラの伝統とは異なる、東スイスの工学的・工業的なものづくりの拠点としての性格は、20世紀のパイロットウォッチや「インヂュニア」へと連なる同社の系譜の出発点となった。創業者ジョーンズは、ブランドの哲学を一人で完成させた人物ではなく、その種子を置いた人物として位置づけられる。

04 — Legacy

評価・後世への影響

What remains

没後の再評価とIWCにおける継承

ジョーンズの去ったのち、IWCはラウシェンバッハ家、その縁戚のホンベルガー家、そして1991年に発足したLMHグループ、2000年からはリシュモン傘下と所有者を変えながら、シャフハウゼンに工場を置き続けた。創業者の名は20世紀の長い時間、社史の冒頭に置かれる事実として静かに継承されたが、商品としてその名が前面に出ることは少なかった。

2005年、IWCは創業時の「ジョーンズ・キャリバー」を発想源とした限定モデル「ポルトギーゼ F・A・ジョーンズ」を発表する。ステンレススチール3,000本、18Kローズゴールド1,000本、プラチナ500本という構成で、ムーブメントには3/4プレートとジョーンズ・アロー型レギュレーターを取り入れた手巻きCal. 98290が搭載された。創業者を「物語」としてではなく「機械」として再解釈する試みであり、その後のIWCの編集的なコミュニケーションのひとつの原型となっている。

写真記録の乏しさは、いまもジョーンズ研究の制約として残る。IWCコレクターズフォーラムを中心に、収集家や研究者が特許資料や国勢調査、教会記録などをもとに彼の人物像をたどる作業を続けてきた。2010年代以降は、IWC自身が短編映像シリーズ「Born of a Dream」でジョーンズの渡欧と創業の物語を描くなど、ブランドの側から創業者像を再構築する動きも見られる。創業から150年以上を経てなお、ジョーンズの実像はゆっくりと、しかし着実に再発見されつつある。

05 — Works

この人物が関わったモデル