9S86
2014年、Cal.9S85のハイビート基盤にGMT機構を加えた、グランドセイコー初の5Hz自動巻GMTキャリバー
Cal. 9S86は、2014年のバーゼルワールドで発表された、グランドセイコー初の自社製ハイビートGMTキャリバーである。2009年に登場した10ビート機Cal. 9S85を基盤に、GMT機構を追加した派生機で、振動数36,000vph(5Hz)、パワーリザーブ55時間、37石の構成を継承する。MEMS技術で加工した脱進機部品、自社開発のSpron 610合金製ヒゲゼンマイにより、平均日差+5〜−3秒の精度を実現。リューズ1段引きで時針のみが1時間単位で前後する真正GMT方式を備え、SBGJ系列を中心に岩手県・雫石高級時計工房で生産が続いている。
| Maker | Grand Seiko |
|---|---|
| Reference | 9S86 |
| Type | Automatic |
| Display | Analog |
| Frequency | 36,000 bph (5 Hz) |
| Jewels | 37 石 |
| Power reserve | 55 h |
| Movement ⌀ | 28.4 mm |
| Hands | Hours, Minutes, Additional 24 Hour Hand (adjustable), Seconds |
| Date | Date |
系譜と歴史
1. 10ビートへの長い帰還
1968年、諏訪精工舎が日本初の自動巻10ビート機Cal. 6145を世に出し、第二精工舎の手巻機Cal. 4520と並んで、グランドセイコーは振動数36,000vph(5Hz)の世界に踏み込んだ。10ビートとは毎秒10振動を意味し、当時の業界主流であった毎秒6〜8振動を大きく上回る。しかし1970年代に始まる水晶振動子時代の到来で、機械式ハイビート機構は産業全体で後退していく。グランドセイコーが10ビート機を再び世に問うのは、1998年の9Sファミリー始動から数えて10年余り、2004年の開発開始から5年を経た2009年のCal. 9S85であった。実に41年ぶりの10ビート機の復活となる。
2. 9S85基盤へのGMT追加
Cal. 9S86は、2014年のバーゼルワールドで発表された9S85の派生機である。GMT針(24時間針)を独立して稼働させ、リューズ1段引きで現地時刻側の時針のみを1時間単位で前後に動かす方式を採る。秒針もホームタイム表示も停止せず、移動中の時刻維持に最適化された、いわゆる「真正GMT(Flyer GMT)」の構造である。9S85由来のスペック──振動数36,000vph、37石、約55時間のパワーリザーブ、平均日差+5〜−3秒の精度、約324個の部品構成──は基本的に継承され、追加機構のために厚みのみ9S85の5.99mmから約0.37mm増している。初搭載モデルはSBGJ001(クリーム文字盤)、SBGJ003(黒文字盤)、SBGJ005(緑文字盤、限定600本、岩手山にちなむ意匠)の3本で、いずれも44GSの意匠を継承する40mmケースに収められた。
3. 9SA5世代との並存
2020年、グランドセイコー創業60周年を機にCal. 9SA5が発表される。同じく振動数36,000vphの自動巻ハイビートだが、横並びツインバレル、デュアルインパルス脱進機、フリースプラング・テンプを採用し、パワーリザーブを80時間、厚さを5.18mmへと刷新した次世代機である。これによりCal. 9S86は技術的な後継を持つに至ったが、現行ラインからの引退はなく、SBGJ系列を中心に並行生産が続く。2023年の9S誕生25周年記念モデルにも9S86の搭載は継続しており、5Hz GMTを担う基幹キャリバーとしての位置は変わっていない。
技術解説
振動数と精度
Cal. 9S86は、毎秒10振動(5Hz)、すなわち36,000vphで稼働する。28,800vph(4Hz)が現代の主流である中、5Hzは「Hi-Beat 36000」と銘打たれる高振動領域に属する。高振動化は、外乱に対するテンプの復元時間を短縮し、姿勢差・温度差・微小衝撃に起因する誤差を抑え込む方向に作用する。日差精度は平均+5〜−3秒/日。これはケース組込前のムーブメントを6姿勢、社内基準下で計測した平均値として定義される。一部のモデル(例:SBGJ229)では「スペシャル」グレードに調整され、+4〜−2秒/日のさらに厳しい基準で出荷される。
脱進機とMEMS加工
脱進機にはスイス・レバー式を採用するが、ガンギ車とアンクルの加工に半導体製造由来のMEMS(Micro Electro Mechanical Systems)技術を用いる点に独自性がある。フォトリソグラフィと電鋳工程によりミクロン以下の精度で部品が形成され、従来の機械加工では難しい軽量化と幾何形状の最適化が実現する。ガンギ車の歯先には微細な油溜まりが設けられ、潤滑油の長期保持と摩擦損失の低減に寄与する設計である。シリコン素材を選択せずに金属合金とMEMS加工で精度を追い込む方針は、長期耐久性に対する慎重姿勢の表れともいえる。
Spronシリーズ──自社製発条合金
グランドセイコーが自社で発条材料を内製してきた歴史は1940〜50年代に遡る。10ビート機の開発で最初に求められたのは、より強いトルクを供給するメインスプリングであり、これに応えて開発されたのがSpron 530である。これにより約6%のトルク増加が実現し、9S85/9S86の55時間パワーリザーブの基盤となった。ヒゲゼンマイには、約5年の開発期間を経て2009年に完成したSpron 610合金が用いられる。コバルト・ニッケル基の独自合金で、従来のSpron合金比で耐衝撃性は約2倍、耐磁性は3倍超に向上したと公式に説明される。
GMT機構と仕上げ
GMT機構は、独立した24時間針をホームタイム表示として常時稼働させながら、リューズ1段引きで現地時刻側の時針のみを1時間単位で前後に動かす構造である。秒針は停止せず、ホームタイム側も停まらないため、移動中の時刻管理に支障が出ない。地板にはロジウムメッキ、橋部分にはグランドセイコー独自のジュネーブ縞「Tokyo Stripes」と呼ばれる縞模様の仕上げが施され、サファイア裏蓋越しに鑑賞できる。ムーブメント直径は28.4mm、約324個の部品で構成され、岩手県・雫石高級時計工房(Grand Seiko Studio Shizukuishi)で組み立て・調整が行われる。