03 — EDITORIAL
系譜と歴史
Genealogy & history
1. 一人の技術者の構想
Spring Driveの物語は、1970年代後半に諏訪精工舎(現セイコーエプソン)に在籍した一人の若き技術者、赤羽好和の発想に始まる。クォーツの精度と機械式の自律性を両立させる「クォーツ・ロック」という構想は、1978年の特許出願を経て1982年に最初の試作機が完成した。しかし当時の技術では実用に耐えるパワーリザーブを確保できず、開発は長く停滞することになる。
1993年の二度目の開発も消費電力の壁に阻まれ、翌年に中断される。三度目の開発は1997年、時計事業部の副事業部長となっていた赤羽の求めで始まった。突破口となったのは、ブレーキで失われていた電力を生かし、漏れ電流を極小に抑えたSOI-ICの完成(1997年12月)である。1998年4月にバーゼルで技術発表を行ったが、同年8月、赤羽は52歳で逝去する。翌1999年、Spring Driveはバーゼルフェアに出展され、手巻きキャリバーCal. 7R68を積むモデルが同年12月に発売された。構想から約20年、600を超える試作を経た到達点であった。
2. グランドセイコー基準の壁
Spring Driveは1999年12月、セイコーとクレドールの限定モデルとして市場に登場した。グランドセイコーの名を冠するには、さらに5年をかけて性能を高める必要があった。初代Cal. 7R68は手巻きで48時間のパワーリザーブにとどまり、グランドセイコーの実用基準には届かなかったのである。
開発チームはここから自動巻機構と72時間化に取り組む。1959年にセイコーが発明した独自の「マジックレバー」自動巻機構を改良し、両方向巻上げの効率を高めた。香箱を再設計してパワーリザーブを72時間まで延伸し、2004年、グランドセイコー初のSpring DriveキャリバーCal. 9R65が発表された。初搭載モデルSBGA001は伝統的なグランドセイコーの意匠を備え、ケースバックからは滑らかに回転するローターを臨むことができた。
3. 9R系列の派生展開
Cal. 9R65はその後の9R系列の起点となる。2006年にはGMT機能を加えたCal. 9R66が、2007年にはGMTとクロノグラフを統合したCal. 9R86が登場した。9R65 と基本構造を共有しながら精度を高めた Cal. 9R15 も、9R誕生10周年の記念限定機などに用いられたとされる。2016年には三つの香箱を直列につないだ8日巻のCal. 9R01、2019年には手巻のCal. 9R02と9R31が加わり、2020年以降は新世代の9RA系列も登場している。9R系の基準器としての位置は、Cal. 9R65が現在も保持している。
4. 業界の中での位置
機械式と電子式の境界を越えるという発想は、業界の中でも独特の位置を占める。同時代のスイス勢が脱進機やヒゲゼンマイの素材革新——シリコン製ヒゲゼンマイや非対称形状の脱進機など——で精度向上を図ったのに対し、Spring Driveは脱進機自体を別原理で置換する道を選んだ。両者は精度という目的を共有しつつ、設計思想の出発点を異にしている。Cal. 9R65は、その思想を量産品として最初に成立させた一例として、信州・塩尻の工房から世界に送り出されてきた。
05 — MECHANISM
技術解説
Technical breakdown
構造の概観
Cal. 9R65の最大の特徴は、動力から輪列までの多くの機構が機械式時計と共通する点にある。香箱、輪列、ローター、自動巻機構までは在来の自動巻ムーブメントと変わらない。決定的な違いは、脱進機(テンプ、ガンギ車、アンクル)に相当する速度制御機構を、独自の「トライシンクロ・レギュレーター」に置換した点にある。これにより、機械式に特有の打撃運動と「カチカチ」という音が存在しない。
トライシンクロ・レギュレーターの三作用
「トライシンクロ」の名は、機械エネルギー・電気エネルギー・電磁エネルギーの三つを同期的に制御することに由来する。
第一に、香箱から伝わる機械的動力が輪列を介して「グライドホイール」と呼ばれる回転体を駆動する。グライドホイールにはローターが取り付けられ、固定されたステーターの磁場中で回転することで微小な電流を発生させる。これが第二の電気エネルギーであり、電流はIC(集積回路)と32,768Hzの水晶振動子を起動させる。水晶振動子はクォーツ時計と同じ標準周波数で振動し、分周回路がこれを毎秒8回(8Hz)の基準信号に変える。ICはグライドホイールの回転をこの基準信号に同期させるよう制御する。
第三の電磁エネルギーは、ICがステーターのコイルに通電して発生させる電磁ブレーキである。グライドホイールの回転が基準より速ければ強くブレーキを、遅ければ弱める。この連続的な調速によって、香箱からの動力は滑らかに、かつ正確な速度で消費されていく。
滑走する秒針
グライドホイールが毎秒8回転するという仕様は、秒針の運動に直結する。グライドホイールは輪列を介して秒針と機械的に連動しており、機械式のように1秒あたり数回の刻みではなく、文字どおり連続的に回転する。結果として秒針は文字盤の上を滑走するように移動する。この「グライド運針」はSpring Driveの視覚的シグネチャーであり、Cal. 9R65を含む9R系全機種に共通する印象である。
自動巻機構とパワーリザーブ
自動巻には、1959年にセイコーが発明した独自の「マジックレバー」機構を採用している。マジックレバーは、ローターの回転方向にかかわらず香箱を一方向に巻上げる極めて単純な構造で、両方向巻きでありながら部品点数を抑えている。Cal. 9R65ではこれを高効率化し、香箱の再設計と併せて72時間のパワーリザーブを確保した。手巻きにも対応し、リューズを押し込んだ状態で時計回りに回すことで巻上げる。
ICと水晶発振子
搭載されるC-MOS ICは、発振回路、分周回路、Spring Drive制御回路を統合した専用設計である。電池等の外部電源はなく、グライドホイールが発生させるごく微弱な電力のみで駆動するため、極限まで低消費電力化されている。1980年代の開発当初、実用化には約100倍の電力効率を持つICが必要とされ、その解決には1997年のSOI-ICの完成を待たねばならなかった。グライドホイールが生む電力は約25ナノワットとされる。この低消費電力化が実現されて初めて、72時間のパワーリザーブと月差±15秒(日差約±1秒)の精度が両立する。
仕上げと精度認定
ローターとブリッジには、ジュネーブストライプに似た縞模様が施される。研磨材で削る通常の手法ではなく、角度をつけたダイヤモンドカッターを回転させて表面を切削するもので、グランドセイコー固有の仕上げとなっている。精度は出荷前にグランドセイコー独自の社内基準で全数調整され、平均月差±15秒(温度範囲は約10〜35℃)で出荷される。Cal. 9R65はCOSC等の外部認証は受けないが、社内基準はクロノメーター規格と同等以上の厳格さを持つとされる。