9R65
2004年、クォーツの精度と機械の自律性をトライシンクロ機構で結んだGrand Seikoの基幹自動巻
Cal. 9R65は、2004年にグランドセイコー初のSpring Driveキャリバーとして発表された自動巻ムーブメントである。長野県塩尻市の信州時の匠工房で開発・組立てされ、機械式時計の構造に電子制御技術を融合させた点に最大の特徴がある。脱進機の代わりに「トライシンクロ・レギュレーター」を搭載し、月差±15秒(日差約±1秒)の精度と、滑走する秒針の運針を両立する。32,768Hzの水晶発振、30石、72時間パワーリザーブ。初搭載はSBGA001、後年のSBGA211(雪白)やSBGA029(ダイバーズ)等を支える基幹キャリバーである。
| Maker | Grand Seiko |
|---|---|
| Reference | 9R65 |
| Type | Spring Drive |
| Display | Analog |
| Jewels | 30 石 |
| Power reserve | 72 h |
| Hands | Hours, Minutes, Seconds |
| Date | Date |
| Additional | Power Reserve Indicator |
系譜と歴史
1. 一人の技術者の構想
Spring Driveの物語は、1977年に諏訪精工舎(現セイコーエプソン)に在籍した一人の若き技術者、赤羽好和の発想に始まる。クォーツの精度と機械式の自律性を両立させる「クォーツ・ロック」という構想は、1978年の特許出願を経て1982年に最初の試作機が完成した。しかし当時の技術では実用に耐えるパワーリザーブを確保できず、開発は長く停滞することになる。
赤羽は1997年に時計事業の副本部長として復帰し、構想を再起動させる。技術的なブレイクスルーは、機械式時計のテンプとガンギ車に相当する脱進機構を、電子的に置換するという発想にあった。1998年、赤羽は商品化を見届けることなく逝去するが、翌1999年、彼のチームは手巻きキャリバーCal. 7R68を完成させ、Spring Driveはバーゼルフェアで世に問われた。28年の歳月と600個の試作の末の到達点であった。
2. グランドセイコー基準の壁
Spring Driveは1999年にクレドール、続いてセイコー本体の限定モデルとして市場に登場したが、当時のグランドセイコーは独自の品質基準を満たさないとして、これを採用しなかった。初代Cal. 7R68は手巻きで48時間のパワーリザーブにとどまり、グランドセイコーの実用基準には届かなかったのである。
開発チームはここから自動巻機構と72時間化に取り組む。1959年にセイコーが発明した独自の「マジックレバー」自動巻機構を改良し、両方向巻上げの効率を高めた。香箱を再設計してパワーリザーブを72時間まで延伸し、2004年、グランドセイコー初のSpring DriveキャリバーCal. 9R65が発表された。初搭載モデルSBGA001は伝統的なグランドセイコーの意匠を備え、ケースバックからは滑らかに回転するローターを臨むことができた。
3. 9R系列の派生展開
Cal. 9R65はその後の9R系列の起点となる。2005年にはGMT機能を加えたCal. 9R66が、2007年にはGMTとクロノグラフを統合したCal. 9R86が登場した。2010年のグランドセイコー50周年に際しては、特別調整された水晶発振子を選別搭載するCal. 9R15が投入され、月差±10秒の精度を実現する。Cal. 9R15は基本構造を9R65と共有しながら、ローターに18金のGSライオン・メダリオンを配した派生グレードであり、SBGA289等の上級モデルに搭載されてきた。2016年にはマイクロアーティスト工房のCal. 9R01、後に平行配置の二香箱と動力回生機構を備える薄型手巻Cal. 9R02、2020年には温度センサー内蔵ICを擁する9RA5系列が登場している。9R系の基準器としての位置は、Cal. 9R65が現在も保持している。
4. 業界の中での位置
機械式と電子式の境界を越えるという発想は、業界の中でも独特の位置を占める。同時代のスイス勢が脱進機やヒゲゼンマイの素材革新——シリコン製ヒゲゼンマイや非対称形状の脱進機など——で精度向上を図ったのに対し、Spring Driveは脱進機自体を別原理で置換する道を選んだ。両者は精度という目的を共有しつつ、設計思想の出発点を異にしている。Cal. 9R65は、その思想を量産品として最初に成立させた一例として、信州・塩尻の工房から世界に送り出されてきた。
技術解説
構造の概観
Cal. 9R65の最大の特徴は、構成部品の約8割が機械式時計と共通する点にある。香箱、輪列、ローター、自動巻機構までは在来の自動巻ムーブメントと変わらない。決定的な違いは、脱進機(テンプ、ガンギ車、アンクル)に相当する速度制御機構を、独自の「トライシンクロ・レギュレーター」に置換した点にある。これにより、機械式に特有の打撃運動と「カチカチ」という音が存在しない。
トライシンクロ・レギュレーターの三作用
「トライシンクロ」の名は、機械エネルギー・電気エネルギー・電磁エネルギーの三つを同期的に制御することに由来する。
第一に、香箱から伝わる機械的動力が輪列を介して「グライドホイール」と呼ばれる回転体を駆動する。グライドホイールにはローターが取り付けられ、固定されたステーターの磁場中で回転することで微小な電流を発生させる。これが第二の電気エネルギーであり、電流はIC(集積回路)と32,768Hzの水晶振動子を起動させる。水晶振動子はクォーツ時計と同じ標準周波数で振動し、ICがそれを基準信号として「グライドホイールが毎秒8回転」に正確に一致するよう制御する。
第三の電磁エネルギーは、ICがステーターのコイルに通電して発生させる電磁ブレーキである。グライドホイールの回転が基準より速ければ強くブレーキを、遅ければ弱める。この連続的な調速によって、香箱からの動力は滑らかに、かつ正確な速度で消費されていく。
滑走する秒針
グライドホイールが毎秒8回転するという仕様は、秒針の運動に直結する。グライドホイールは輪列を介して秒針と機械的に連動しており、機械式のように1秒あたり数回の刻みではなく、文字どおり連続的に回転する。結果として秒針は文字盤の上を滑走するように移動する。この「グライド運針」はSpring Driveの視覚的シグネチャーであり、Cal. 9R65を含む9R系全機種に共通する印象である。
自動巻機構とパワーリザーブ
自動巻には、1959年にセイコーが発明した独自の「マジックレバー」機構を採用している。マジックレバーは、ローターの回転方向にかかわらず香箱を一方向に巻上げる極めて単純な構造で、両方向巻きでありながら部品点数を抑えている。Cal. 9R65ではこれを高効率化し、香箱の再設計と併せて72時間のパワーリザーブを確保した。手巻きにも対応し、リューズを押し込んだ状態で時計回りに回すことで巻上げる。
ICと水晶発振子
搭載されるC-MOS ICは、発振回路、分周回路、Spring Drive制御回路を統合した専用設計である。電池等の外部電源はなく、グライドホイールが発生させるごく微弱な電力のみで駆動するため、極限まで低消費電力化されている。グランドセイコーの公表によれば、Cal. 9R65のIC消費電力はわずか25ナノワット——1980年代の試作機の約1パーセントにまで抑えられているとされる。この低消費電力化が実現されて初めて、72時間のパワーリザーブと月差±15秒(日差約±1秒)の精度が両立する。
仕上げと精度認定
ローターには「GS Grand Seiko」の青色文字が刻まれ、放射状サテン仕上げが施される。ブリッジ類はサテンとペルラージュで仕上げられるが、機械式の上級機ほど凝った肉抜きや面取りは行わない設計である。耐衝撃機構はセイコー独自のダイヤショックを搭載する。精度は出荷前にグランドセイコー独自の社内基準で全数調整され、平均月差±15秒(温度範囲は約10〜35℃)で出荷される。Cal. 9R65はCOSC等の外部認証は受けないが、社内基準はクロノメーター規格と同等以上の厳格さを持つとされる。