03 — EDITORIAL
系譜と歴史
Genealogy & history
1. 開発の背景 — 「クォーツ・ロック」から半世紀
スプリングドライブの構想は、1970年代後半に諏訪精工舎(現セイコーエプソン)のエンジニア赤羽好和が描いた「クォーツ・ロック」に端を発する。機械式の主ぜんまいを動力としながら、水晶振動子の精度で時を刻む——その理想は、1982年に4時間しか駆動しない試作機を生み、1983年に一度凍結された。低消費電力ICの登場を待って1997年に再開し、1998年バーゼルにて発表、1999年に手巻きCal.7R68として商品化される。発明者の赤羽は1998年に52歳で他界し、商品化の瞬間を見ていない。
2004年、自動巻き化されたCal.9R65がグランドセイコーSBGA001に搭載され、9R系の基礎が定まる。グランドセイコーによれば、ストップウオッチ機能を備えたスプリングドライブは開発当初から構想されていた。
2. 技術的革新 — 静止する針と止まらない動力
Cal.9R86は2007年、SBGC001で初搭載された。グランドセイコー初のスプリングドライブ式クロノグラフであり、自動巻きとGMT機能を統合している。技術的中核は二点に集約される。
ひとつはトライ・シンクロ・レギュレーターによる「正確な停止」である。機械式クロノグラフでは秒針が振動の節目でしか止まらず、計測値は最小単位の倍数に丸められる。スプリングドライブの秒針はグライド運動で連続的に滑るため、停止ボタンを押した瞬間に時間が「そのまま」固定される。月差±15秒の精度はクロノグラフ作動中も維持される。
もうひとつは、機構作動による動力低下を避けた設計である。コラムホイール制御と垂直クラッチを採用しつつ、輪列と歯形を徹底的に見直して機械的負荷を最小化した結果、72時間のパワーリザーブはストップウォッチ作動時にも保たれる。ストップウオッチ機能を加えるために、スプリングドライブ自体の基本性能の向上も欠かせなかったとグランドセイコーは説明している。
3. 派生と展開 — 9Rファミリーの中で
9R系は、時刻表示の9R65、GMTの9R66、8日巻の9R01、手巻きの9R02・9R31などへ枝分かれする。精度を高めたクロノグラフのCal.9R96は平均月差±10秒(日差±0.5秒相当)とされ、限定モデルなどに投入されてきた。2020年以降は新世代の9RA系列も登場している。
4. 業界での位置 — 異なる原理が生む差異
機械式クロノグラフが脱進機の振動周波数(典型的には28,800vph)で時間を刻むのに対し、9R86は水晶振動子の32,768Hz信号を基準として制御する。両者は精度・耐温性・操作感のそれぞれで設計思想を異にし、優劣ではなく異なる理想像の実装と捉えられる。スプリングドライブを商品化できたのは、機械式と電子式の両方の技術蓄積を持つグランドセイコーならではの達成であった。
04 — MECHANISM
技術解説
Technical breakdown
動力と調速 — 三つのエネルギーの協調
9R86は自動巻きの機械式ムーブメントとして主ぜんまいを動力源にする一方、時刻精度の制御に水晶振動子を用いるハイブリッド機構である。脱進機とテンプの代わりに、トライ・シンクロ・レギュレーターと呼ばれる調速システムを備える。
主ぜんまいの解放エネルギーは、輪列の最終端に位置するグライドホイール(発電ローター)を回転させる。ステーターのコイルとの相対運動により微弱な電力が発生し、これが集積回路(IC)と32,768Hzの水晶振動子を駆動する。ICは水晶の基準信号とグライドホイールの実回転数を比較し、超過分には電磁ブレーキを掛けて毎秒8回転に正確に維持する。電池や蓄電器は用いず、消費電力以上を発電し続けることでシステムが成立する。
この構造により、月差±15秒(日差±1秒)の精度が達成される。秒針は機械式のように刻まず、グライド運動と呼ばれる滑らかな連続運動で文字盤を進む。
クロノグラフ機構 — コラムホイールと垂直クラッチ
クロノグラフ部はコラムホイール(ピラーホイール)制御を採る。プッシュボタンによりコラムホイール(柱車)が回転し、各種レバーの位置を切り替えてスタート/ストップ/リセットを司る。レバーとクラッチへの応力が抑えられるため、操作の質感が滑らかで、機構への負荷が小さい。
スタート/ストップ機構には垂直クラッチを用いる。クロノグラフ秒車を四番車に対し垂直方向の摩擦で連結する方式で、水平噛合に伴う秒針の跳びが原理的に発生しない。グライド運動の秒針が「飛ばずに」スムーズに動き出すこの設計は、計測の正確性と視覚的な美しさの双方に寄与する。この垂直クラッチ方式は、1969年にセイコーが自動巻クロノグラフとして世界で初めて採用したもので、9R86ではクラッチばねの材質や形状も見直された。
プッシュボタンには2段階のREADY/START方式が採用された。軽く押し込むとREADYに入り、もう一段の押下で計測が開始される。カメラのシャッターの半押しと同じ考え方で、一気に押し込むより誤操作の少ないスタートができる。さらに一部のモデルでは、ボタンにねじロック式の構造を組み込み、不意の作動を防いでいる。
機能と仕様 — 8針の高機能機構
搭載機能は、時・分・秒・日付・パワーリザーブ表示・12時間積算クロノグラフ・24時間表示のGMT針と多岐にわたり、針の数は計8本に及ぶ。石数は50石で、ストップウオッチは30分計と12時間計を備える。これらすべては、長野県塩尻市の信州時の匠工房において、限られた技術者の手によって組み立てられる。
9R系のローターと受けには、角度をつけたダイヤモンドカッターで切削した縞模様の装飾が施される。サファイアシースルーバックを介して、回転するグライドホイールとコラムホイールの動きを観察できる点も、この機構の鑑賞性を高めている。