セザール・ド・トレイ
ポロ場の課題を持ち帰り、特許と名称と販路を整えてレベルソを世に送り出したスイスの実業家
- BRAND
- ジャガー・ルクルト — 1833年創業
概要
セザール・ド・トレイ(César de Trey)は、スイスの実業家である。フランス国立図書館の典拠記録によれば、1876年に生まれ、1935年に没した。義歯と歯科材料の取引で財を成し、1920年代には時計の取引にも手を広げた。1930年にインドで英国軍将校から、競技で壊れない時計を求められたと伝わる。これがジャガー・ルクルトのレベルソの出発点となった。翌1931年、技師ショーヴォーの特許を買い取って名称を登録し、ルクルトと販売会社を設けている。機構の発明者ではなく、課題と技術と販路を結びつけた事業家として、時計史に名を残す。
生涯
01歯科材料の商人
セザール・ド・トレイ(César de Trey)は、スイスの実業家である。フランス国立図書館の典拠記録は、生年を1876年、没年を1935年とする。
最初の事業は時計ではなく、歯科材料だった。米国の歯科材料大手デンツプライの企業史によれば、父は金を用いた歯科充填材「ソリラ・ゴールド」を改良した人物である。セザールは兄オーギュストとともに渡米し、この製品を売り込もうとした。ところが兄弟は米国製品の水準の高さを知り、逆にそれを欧州へ運ぶ道を選ぶ。
兄弟はロンドンに事務所を置き、弟のセザールが欧州市場の開拓を担った。兄弟の会社は、米国デンティスツ・サプライ社の欧州での単独代理店となる。1923年までに、販路はパリ、ミラノ、ブリュッセル、マドリードなどへ広がっていた。英国のアッシュ社との値下げ競争を経て、1924年には両社の販売部門がアマルガメイテッド・デンタルとして統合されている。ド・トレイの財は、こうした義歯と歯科材料の取引で築かれた。
02時計の世界へ
1920年代、ド・トレイの関心は時計へ向かう。SJX Watchesによれば、彼はローザンヌに時計店を開いていた。Quill & Padは、スイスの高級時計を各地へ流通させた実業家として彼を紹介している。スイス高級時計財団(FHH)によれば、彼は時計の取引を通じて、二つの作り手と面識を得ていた。ジャック=ダヴィッド・ルクルトが率いるルクルトと、パリのジャガー社である。
1930年、ド・トレイは商用でインドへ渡った。現地の英国軍将校たちはポロに熱中しており、試合のたびに腕時計の風防が割れていた。将校の一人から、競技に耐える時計を作れないかと持ちかけられたと伝わる。この依頼が、彼の後半生の仕事を決めた。
03レベルソの年
欧州に戻ったド・トレイは、旧知のルクルトに製造を持ちかけた。ケースの設計は、エドモン・ジャガーの会社との縁を通じて外部に託された。引き受けたのは、フランスの技師ルネ=アルフレッド・ショーヴォー(René-Alfred Chauvot)である。1931年3月4日にショーヴォーが特許を出願すると、ド・トレイは同年7月にその権利を買い取った。11月にはレベルソの名を登録し、同じ秋にはルクルトと販売会社を立ち上げている。
04晩年
会社の運営は、やがてルクルトの側へ重心を移していく。Grail Watch Wikiが引く商業登記の記録では、1933年11月に取締役会が改められた。議長職はド・トレイから、ルクルトに近いギュスターヴ・ドラージュへ移ったとされる。ド・トレイの没年は1935年と記録されている。ジャガー・ルクルトの公式史は、ジャガーとルクルトの名が一つになった年を1937年とする。彼はその社名の誕生を見ることなく世を去った。
業績・代表作
01発明者ではなく、事業の設計者
レベルソの反転機構を考案したのはショーヴォーであり、ド・トレイは時計師でも技師でもなかった。それでもジャガー・ルクルトの公式の歴史は、裏返せるケースという着想そのものをド・トレイのものとして記している。
彼の働きは、現場の課題を拾い上げ、作り手を結びつけ、権利と販路を整えるところにあった。特許の権利の買い取り、名称の登録、販売会社の設立までを、ド・トレイは1931年のうちに済ませている。最初の製品が売りに出たのは、特許の出願から9か月足らずのことだった。発明を製品に変える速さこそ、事業家としての彼の持ち味だった。
02製造と販売の分担
スペシャリテ・オルロジェール(Spécialités Horlogères)は、ルクルトとジャガーの時計を売る会社である。その品揃えの柱がレベルソだった。SJX Watchesによれば、同社はのちにレベルソの特許そのものも取得している。
製造は分業で進められた。ケースの仕上げにはケース職人のヴェンガーが起用された。ジャガー・ルクルトのプレス資料によれば、当初はタヴァンヌ製のキャリバーが用いられた。ルクルト自身の角形ムーブメントが登場するのは1933年である。発明者、ケース職人、ムーブメントの供給元、そして販売会社。ド・トレイはこの連なりの要の位置にいた。詳しい経緯は1931年のレベルソ誕生の記事に譲る。
03ブランドを越えたケース供給
初期の反転ケースは、ルクルトとジャガーの時計だけに使われたわけではない。SJX Watchesによれば、1931年から32年にかけて、8個のレベルソのケースがパテック フィリップに納められた。当時ルクルトは同社の役員を務めており、この取引にはド・トレイの同意もあったとされる。
1933年には、カルティエが縦軸で反転するケースを持つカブリオレを発表する。SJX Watchesは、この意匠の特許もスペシャリテ・オルロジェールが持っていたと伝える。ド・トレイとルクルトは、反転ケースを自社の製品だけに閉じ込めなかった。権利を握ったうえで、他のメゾンにも供給したのである。
04課題から製品を組み立てる
ド・トレイの歩みには、一つの型が見える。歯科の分野では、米国の優れた製品を見いだし、欧州へ届ける販路を築いた。時計の分野では、ポロ場の不満から出発し、作り手と権利と販路を一つにまとめた。
スイスの経済誌Bilanzの記事によれば、彼は風防に蓋や格子を被せる既存の方法では満足しなかったという。より洗練された反転式を望み、当初から矩形のケースを考えていたとされる。技術を自ら生むのではなく、課題と技術と市場を結びつけること。それがド・トレイの業績を貫く方法だった。
評価・後世への影響
01レベルソのその後
ド・トレイの没後も、レベルソは作られ続けた。1950年代に入ると人気は陰り、クオーツ時計が広まるなかで存在感を失っていく。転機をもたらしたのは、イタリアの販売代理人ジョルジョ・コルヴォだった。彼が工場に残る最後の200個のケースを買い取り、機械式ムーブメントを載せて売り出すと、1か月ほどで売り切れた。1981年には技師ダニエル・ヴィルトがケースの再設計を任され、1985年に新しいケースが登場する。ド・トレイが1931年に登録したレベルソの名は、この復活の後もそのまま受け継がれている。
02名前の残り方
現在のジャガー・ルクルトは、レベルソの公式の歴史の冒頭にド・トレイの名を挙げている。2021年の90周年に際しても、彼は1930年にこの時計を構想した人物として紹介された。歯科の分野でも一族の名は残った。企業史によれば、デンツプライの製品はド・トレイの名を冠したブランドでも販売されていた。
ポロの逸話には、細部の異なる語りが複数ある。それでも、実業家が課題を持ち帰り、権利と販路を整えたという骨格は、公式の記録と専門メディアの記述とで一致する。レベルソは、発明者と作り手と事業家が揃って生まれた時計である。ド・トレイはその事業家の役割を担った人物として記憶されている。
出典
本文の執筆にあたって参照した資料。閲覧日は内容を確認した日を示す。
- 01 公式 The Genesis of Reverso
- 02 公式 The History of the Reverso Luxury Watches
- 03 公式 The history of Jaeger-LeCoultre
- 04 報道 Reverso: Der richtige Dreh
- 05 報道 Dentsply International Inc.
- 06 専門メディア César de Trey (1876-1935)
- 07 専門メディア Reverso, l’histoire d’une icône depuis 90 ans
- 08 専門メディア Jaeger-LeCoultre Exhibition In Paris Pays Homage To 90 Years Of The Iconic Reverso
- 09 専門メディア The Story of the World’s Most Famous Reversible Watch
- 10 オークション Jaeger-LeCoultre “Reverso”, blue dial; stainless steel
- 11 ブログ The history of the Jaeger-LeCoultre Reverso watch
- 12 ブログ César de Trey