ルイ=フランソワ・カルティエ
1847年にパリで師の工房を買い取ったカルティエの創業者。第二帝政の宮廷を顧客とし、店を家業として息子へ渡した(1819-1904)
- BORN
- 1819年
- DIED
- 1904年
- BRAND
- カルティエ — 1847年創業
概要
ルイ=フランソワ・カルティエ(Louis-François Cartier、1819-1904)はフランスの宝飾商である。カルティエの創業者で、金属職人の家に生まれた。1847年、師アドルフ・ピカールからパリ・モントルグイユ通り29番地の工房を買い取った。1853年には個人の顧客に直接売る店を構え、第二帝政期にはマチルド王女や皇后ウジェニーを顧客に迎えた。1874年に経営を息子アルフレッドへ譲り、孫の三兄弟が国際的な宝飾店へ育てるための土台を残した。
生涯
01職人の家に生まれて
ルイ=フランソワ・カルティエは1819年、金属職人の父と洗濯婦の母のもとに長男として生まれた。父ピエールはナポレオン戦争に従軍して捕虜となり、1815年に無一文でパリへ戻ったと伝わる。その父が、息子をパリの宝飾職人の徒弟に出した。当時の宝飾職人は中産階級の仕事とみなされ、家の暮らしを一段引き上げる道だったとされる。
修業先は、モントルグイユ通り29番地で工房を営むアドルフ・ピカールである。仕事は厳しく、工房では鞭が道具の一つだったと伝わる。ルイ=フランソワはこの工房で働きながら、宝飾の技と商いを身につけた。
02師の工房を継ぐ
1847年、ピカールが店を移すことになり、ルイ=フランソワは働いていた工房を師から買い取った。ピカールは、より流行の街区にある広い店へ移ったとされる。工房は宝飾品に加え、流行の装身具や小物も扱っていたとされる。これがのちのカルティエの起点である。
独立の時期は、政治の変動と重なった。翌1848年に二月革命が起きて王政が倒れ、1852年には第二帝政が始まる。皇后ウジェニーが華やかな宮廷を率いた時代で、宝飾の商いには追い風が吹いたとされる。ルイ=フランソワの店も、この時代に宮廷とつながる顧客を得て育った。
03戦争と継承
1870年に始まった普仏戦争と、翌年のパリ・コミューンは、店の歩みを一時止めたとされる。立て直しを助けたのは、息子アルフレッドの取引だったという。パリで名を知られたクルチザンヌ、ジュリア・バルッチの宝石を、委託を受けて売ったとされる。
戦後、経営は次の世代へ移っていく。メゾンの年表によれば、ルイ=フランソワは1872年に息子アルフレッド(1841-1925)と手を組んだ。1874年には、経営をアルフレッドに譲っている。Horlogerie-Suisseのアーカイブは、家の伝統を築くために息子へ仕事を教え、共同経営者に迎えたと記している。
04晩年
アルフレッドには3人の息子がいた。長男ルイ(1875-1942)、次男ピエール(1878-1964)、三男ジャック(1884-1941)である。1898年にルイが家業に加わり、店名はアルフレッド・カルティエ・エ・フィスに改まったとされる。翌1899年にはルイの発案で、店はラ・ペ通り13番地へ移った。1902年には、ピエールがロンドンに店を開いている。
ルイ=フランソワは1904年に没した。モントルグイユ通りの工房を継いでから57年後のことで、孫たちが店を国の外へ広げ始めた時期にあたる。
業績・代表作
01工房から店へ
ルイ=フランソワの業績の第一は、職人の工房を、顧客に直接売る店へ変えたことにある。1853年、彼はヌーヴ=デ=プティ=シャン通り5番地に最初の販売サロンを開いた。パレ・ロワイヤルに近いこの場所で、店は個人の顧客から注文を受けるようになる。
1859年には、当時流行の地区とされたイタリアン大通り9番地へ移った。師の移転を機に始まった店は、その後も顧客の集まる街区を追って居を移している。孫の代のラ・ペ通りへの移転も、同じ方向の延長として読める。
02第二帝政の顧客
店の評判を広げたのは、ナポレオン3世の宮廷に連なる顧客である。1850年代半ばには、皇帝の従妹マチルド王女が顧客となった。カルティエの年表は王女の最初の買い物を1856年とし、王女がパリの上流社会への扉を開いたと記す。帳簿には、王女の購入品が200点を超えて残るとされる。
1859年には皇后ウジェニーも顧客に加わり、銀の茶器を注文したと伝わる。古代や古典に想を得た洗練された宝飾品が、こうした顧客の目に留まったとされる。宮廷の女性たちとの取引が、新しい客層を呼ぶ入り口になった。
宝石の供給も変わりつつあった。1860年代末に南アフリカでダイヤモンドの鉱床が見つかり、良質の石がまとまって市場に出るようになった。宝飾の仕事は、この変化のなかで次の世代へ受け継がれていく。
03宝飾商が扱った時計
ルイ=フランソワは時計師ではなく、時計は宝飾商の品ぞろえの一部だった。時計がカルティエの帳簿に初めて現れるのは1853年である。男性用の懐中時計と、女性向けのペンダント型やブローチ型、シャトレーヌの時計だった。1870年代には、指輪に小さな時計を収めた品も売られたとされる。
古い時計の転売も商いの一部だった。19世紀の記録には、ルイ14世時代の時計やアブラアン=ルイ・ブレゲの作品を転売した記載があるとされる。20世紀初頭の時点でも、店の時計は外部の時計師と組んだ特注品と、他社製の時計の販売が中心だったとされる。
カナダ・ケベック州トロワリビエールのピエール=ブシェ博物館は、1880年頃の金の懐中時計を収蔵している。同館はこれを、ルイ=フランソワがピカールから継いだ工房の品としている。
04業績を貫くもの
記録から見えるのは、宝飾を、顧客との直接の関係のうえに置く姿勢である。工房から店へ、パレ・ロワイヤルから大通りへと場を移しながら、彼は宮廷とその周辺へ顧客を広げていった。時計も、精度を競う機械としてではなく、装身具として扱われた。
時計の形そのものを考える仕事は、孫ルイの代に始まる。ルイ=フランソワが築いたのは、その仕事を受け止める顧客の層と、店という場であった。
評価・後世への影響
孫たちの代の物語が広く知られる一方で、メゾンは1847年を創業の年として掲げてきた。メゾンの年表には、1997年の創業150年の祝賀も記されている。
ルイ=フランソワが没した1904年は、孫のルイが腕時計を作った年でもある。飛行家アルベルト・サントス=デュモンのための一本で、のちのサントスにつながる。宝飾商の品ぞろえの一つだった時計が、意匠の中心へ移っていく転機は、創業者の死と同じ年に訪れた。
20世紀後半、店は一族の手を離れた。1972年にパリの店が投資家グループに引き継がれ、1979年にはパリ、ロンドン、ニューヨークの店が一つの法人にまとめられた。
一族の歴史をあらためて書いたのは、子孫のフランチェスカ・カルティエ・ブリッケルである。ロンドンの店を率いた一族最後の人物、ジャン=ジャック・カルティエの孫にあたる。祖父の家の地下室で見つかった一族の手紙をもとに、2019年に『The Cartiers』を出版した。ルイ=フランソワの生誕から200年にあたる年で、書は彼の生い立ちから語り起こされる。
美術館の展示も、創業者の歩みを伝えてきた。2012年から翌年にかけて、マドリードのティッセン=ボルネミッサ美術館で「カルティエの芸術」展が開かれた。展示の最初の章は、彼の徒弟時代からラ・ペ通りへの移転までを扱った。
出典
本文の執筆にあたって参照した資料。閲覧日は内容を確認した日を示す。
- 01 公式 Cartier Timeline
- 02 公式 Our Style - Cartier
- 03 公式 CARTIER’S WATCH
- 04 報道 When Cartier was the girls’ best friend
- 05 専門メディア Cartier
- 06 専門メディア Cartier Brand Portrait: A Tale of Watchmaking in the Cartier Empire
- 07 専門メディア Cartier: The Jeweller to Kings and the Automatic Movement
- 08 専門メディア The Cartiers: the story of a dynasty
- 09 専門メディア The Art of Cartier: From Apprentice to Rue de la Paix