定力装置
主ゼンマイの放出トルク変動を平準化し、脱進機へ一定のエネルギーを送り続ける、精度向上のための補助動力装置。
定力装置(Constant Force、コンスタント・フォース)は、主ゼンマイの放出トルクが解放につれて減衰する問題に対処し、脱進機へ常に一定のエネルギーを供給するための補助機構である。レモントワール・デガリテ(remontoir d'égalité)、チェーン&フューゼ、定力脱進機など複数の形式が存在し、いずれも振幅の安定によって等時性を確保し精度向上を図る。16世紀末にヨスト・ビュルギが天文時計に応用した補助動力の概念に端を発し、20世紀末以降、F.P.ジュルヌ、A.ランゲ&ゾーネ、ジラール・ペルゴらの手によって腕時計の高級複雑機構として復興した。
仕組み・原理
1. 解決すべき問題
主ゼンマイは満巻状態から解放に向かって、放出するトルクが徐々に低下する。テンプの振り角(振幅)は受け取るトルクに依存するため、振幅も同様に減少する。理想的にはヒゲゼンマイは振幅によらず一定周期で振動すべきだが(等時性)、現実には振り角に応じて微小な周期差が生じる。結果として、時計のレートは満巻直後と動力切れ直前で異なる値を示す。定力装置(Constant Force)はこの問題を機構的に解決し、脱進機が受け取るエネルギーを常時一定に保つことを目的とする補助動力機構である。
2. 三つの主要形式
定力装置には大きく三つの形式が知られている。第一にレモントワール・デガリテ(remontoir d'égalité)は、主ゼンマイと脱進機の間に小さな二次ゼンマイを介在させ、主ゼンマイがこれを一定間隔で巻き直す構造をとる。脱進機は二次ゼンマイから直接エネルギーを受け取るため、主ゼンマイの状態に影響されない。第二にチェーン&フューゼ(chain and fusée)は、円錐状の滑車に巻かれた鎖を香箱で巻き取る古典的構造で、鎖が掛かる半径が解放につれて拡大することにより、減衰するトルクを機械的に補正する。第三に定力脱進機(constant force escapement)は、中間ストレージの機能を脱進機自体に統合した形式で、別個の二次ゼンマイを持たない。
3. 周期と効果の限界
レモントワール式の再充填周期は機構ごとに異なるが、1秒に1回が広く採用される。これは秒針の運動をデッドビート秒(seconde morte)として可視化できる利点を持ち、F.P.ジュルヌの実装はその代表例である。A.ランゲ&ゾーネのLange 31では10秒ごとに60°の再充填が行われる。チェーン&フューゼには周期的な再充填動作は存在せず、解放全体にわたる連続的な補正となる。定力装置を備えた時計は、満巻から動力切れまで振幅が安定する原理的利点を持つが、機構の複雑化と摩擦の増大を伴う。ヒゲゼンマイ自体の設計改良によっても等時性は相当程度確保可能であり、定力装置がもたらす精度向上の実効性については時計学的議論が続いてきたとされる。
歴史
1. 起源:天文時計と航海時計
定力の概念は単一の発明ではなく、複数の系譜を持つ。チェーン&フューゼは中世にまで遡る古い機構で、15世紀には既に時計の動力均一化に用いられていたと伝わる。一方、現代に通じるレモントワールの概念は、スイスで活動したドイツ系時計師ヨスト・ビュルギ(1552-1632)が、天文観測用時計の精度向上のため、二次ゼンマイを主ゼンマイで定期的に巻き直す機構を考案したことに始まるとされる。18世紀に入ると、ジョン・ハリソン(1693-1776)が経度問題を解決するために手掛けた航海時計(マリン・クロノメーター)の系列にレモントワール型の補助動力を取り入れたと伝わる。海上の長距離航海で要求される極限的精度のためには、主ゼンマイの解放トルク変動を吸収する仕組みが不可欠と考えられたためである。
2. 懐中時計から腕時計へ
19世紀には懐中時計の高級ムーブメントにフューゼやレモントワールが採用されたが、20世紀に入ると製造の手間に対する精度向上効果の限界が指摘され、徐々に主流から外れていった。腕時計の小型化と量産化の流れの中で、定力装置は希少な複雑機構として例外的な存在となる。20世紀を通じて腕時計やそれに準ずる小型機構に定力装置を実装した時計師は、ジョージ・ダニエルズ、アンソニー・ランダル、フランソワ=ポール・ジュルヌら数名に限られるとジュルヌ自身が後年回顧している。
3. 現代の復興
腕時計における定力装置の本格的復興は1999年、F.P.ジュルヌが Tourbillon Souverain à Remontoir d'Égalité を20本限定の予約販売(souscription)として発表したことによる。これは腕時計として初めてトゥールビヨンとレモントワールを組み合わせた作例とされる。2007年にはA.ランゲ&ゾーネが Lange 31 を発表し、31日(744時間)のパワーリザーブを定力脱進機で支える設計を示した。2013年にはジラール・ペルゴが Constant Escapement L.M. を発表、シリコン製座屈ブレードによる新しい定力脱進機を提示してGPHGの金針賞(Aiguille d'Or)を受賞、2023年には改良型 Neo Constant Escapement へと発展している。
代表的な実装
腕時計における定力装置の実装は、形式とブランドの双方で多様な広がりを見せる。
F.P.ジュルヌ Tourbillon Souverain à Remontoir d'Égalité(1999年、Cal.1498)は、腕時計としてトゥールビヨンとレモントワール・デガリテを組み合わせた初の作例とされる。再充填周期を1秒に設定し、毎秒前進する秒針で機構の作動を可視化した。2003年には独立した死秒針を加えた発展型に移行している。
A.ランゲ&ゾーネ Lange 31(Ref.130系、2007年、Cal.L034.1)は、二段重ねの香箱に長さ1,850mmのゼンマイを2本収め、31日のパワーリザーブを実現した。10秒ごとに60°のレモントワール再巻き上げを行う特許機構が、満巻から動力切れまで振幅を安定させる。同社はさらに Pour le Mérite シリーズで古典的なチェーン&フューゼを採用し、Zeitwerk では数字円盤のジャンプ動作の動力源として定力装置を転用するなど、複数の形式を並行して実装する。
ジラール・ペルゴ Constant Escapement L.M.(2013年)は、Nicolas Déhonの構想に基づき、14μm厚のシリコン製座屈ブレードを用いた定力脱進機を実現した。座屈時に解放される一定のエネルギーで脱進機を駆動する原理は、従来のレモントワールとは異なる新しい形式と位置づけられる。
このほか、ロマン・ゴティエ Logical One はチェーン&フューゼを直線運動として再解釈し、グルーベル・フォルセイ Différentiel d'Égalité は遊星歯車を介して連続的に定力を取り出す機構を採用、グロネフェルド 1941 Remontoire は8秒周期のレモントワールを古典的造形の中に収めるなど、各ブランドが異なる解釈を提示している。