設計思想
五輪の計時を担うブランドの選択
オメガは1932年のロサンゼルス大会以来、五輪の公式計時を繰り返し担ってきた。東京2020大会では通算29回目のオフィシャルタイムキーパーを務めることが決まっており、開催国に向けた記念モデルの投入は既定路線だった。意外だったのは題材である。大会記念モデルは従来シーマスター系で展開されることが多かったが、東京大会に向けてオメガが主役に据えたのはスピードマスターだった。背景には日本市場の特性がある。日本はスピードマスターへの支持が世界でも際立って高く、2018年7月には日本の特撮作品に着想を得た「スピーディーチューズデー ウルトラマン」限定が、発売後2時間足らずで完売したばかりだった。その同じ月、開幕のちょうど2年前にあたる7月24日に合わせて披露されたのが、日本限定の5部作「スピードマスター 東京2020 リミテッド エディションズ」である。
五輪旗の5色と「青」の系譜
コレクションは五輪旗の5つの輪に対応する青・黄・黒・緑・赤の5本で構成され、それぞれ2,020本が用意された。注目すべきは、スチール3本が過去の人気限定の意匠を参照していた点である。青の522.30.42.30.03.001はジェミニ4号の船外活動を記念した「ファースト・スペースウォーク」(Ref. 3565.80.00)に連なり、パンダ文字盤の522.30.42.30.04.001は2004年のアポロ11号35周年記念(Ref. 3569.31.00)を踏まえる。赤の522.30.42.30.06.001は前例のない明灰色の文字盤を持ち、のちに「ライジングサン」の愛称を得た。つまり本作の青は単なる色違いではなく、すでに正規入手の道が絶えて久しい2000年代の名作限定の意匠を、現行仕様で蘇らせるという文脈を背負っていた。
日本限定2,020本という枠組み
販売は日本国内のオメガ正規店に限定され、本数は大会年にちなむ各2,020本とされた。さらに5本すべてを収めた55セット(各Refの末尾は.002)が用意され、専用ボックスと5本の替えレザーストラップが付属した。セット内の5本は裏蓋の刻印番号を共有する。日本限定という流通形態は世界のスピードマスター収集家の関心をかえって高め、発表直後から各国のメディアや愛好家コミュニティで広く取り上げられた。
延期された大会と「2020」の名
2020年3月、新型コロナウイルス感染症の拡大を受けて大会の1年延期が決定する。大会名が「東京2020」のまま維持されたのと同様、本作の名称と刻印も変更されなかった。さらに2021年1月、レギュラーのムーンウォッチはCal.3861を搭載する310系へ世代交代し、Cal.1861の通常生産は幕を下ろす。結果として本作は、月面に渡った861系の最終世代を積む限定群の一角という、発表時には想定されていなかった位置づけを後から獲得することになった。
意匠分析
ベースは当時の現行ムーンウォッチ、すなわち42mmの非対称ケースである。リューズと2つのプッシャーを守るように右側面が張り出し、ねじりを加えたリラ(竪琴)型ラグが輪郭に緊張感を与える。この骨格は通常版と共通で、本作固有の選択はガラスと裏蓋の組み合わせに表れる。風防は無反射コーティングを施したドーム型サファイア。一方で裏蓋はシースルーではなく閉じられ、東京2020大会のエンブレムと限定番号が刻まれる。当時、サファイア風防のレギュラー機311.30.42.30.01.006が装飾仕様のCal.1863をシースルーバック越しに見せていたのに対し、本作は裏蓋を閉じることで、ヘサライト版と同じCal.1861をそのまま搭載した。手巻きでカム式切替(コラムホイールに代わる簡潔な制御機構)を持ち、毎時21,600振動 (3Hz)、約48時間のパワーリザーブを確保する。
文字盤はサンブラッシュ仕上げのブルーで、3時・6時・9時のカウンターをシルバーで切り替えた、いわゆるブルーパンダの構成である。インデックスとオメガロゴは植字で、18Kホワイトゴールド製とされる。「Speedmaster」の筆記体ロゴは赤で刷られ、クロノグラフ秒針の先端にも赤が差される。ベゼルにはブルーのアルミニウム製タキメーターインサートが収まり、文字盤と呼応する。範とされるジェミニ4号限定と並べると、インデックスの長さ、カウンターの色、赤の配し方が異なり、復刻ではなく再解釈であることがわかる。ブレスレットはブラシとポリッシュを切り替えた3連スチールで、フォールディングクラスプを備える。50m防水もムーンウォッチの定石どおりである。
系譜と歴史
2018年7月23日、東京で披露イベントが開かれ、現役オリンピアンも出席したと伝わる。翌24日、東京2020大会開幕のちょうど2年前にあたる日付に合わせて正式発表され、国内のオメガ正規店で展示と販売が順次始まった。当初は日本版の公式サイトのみに掲載され、海外メディアは日本発の情報として報じている。発表時の国内価格はスチールの3モデルが680,400円(税込・当時)。各モデル2,020本に加え、5本セット(55セット限定、各Ref末尾.002)が同時に発表された。出荷は一度に行われず、2018年秋から大会本番に向けて段階的に国内ブティックへ供給されたとされ、入荷のたびに短期間で完売する状態が続いたと伝わる。2020年3月、新型コロナウイルス感染症の影響で大会の1年延期が決定したが、本作の名称と裏蓋刻印は「TOKYO 2020」のまま維持された。2021年1月にはレギュラーのムーンウォッチがCal.3861を搭載する310系へ移行し、本作が積むCal.1861は通常生産を終えている。出荷は2021年7月23日に開幕した大会の前後まで続いたとみられ、限定本数の完売をもって販売を終了した。限定モデルのため再生産はなく、現在は生産終了モデルである。