ジャン=フランソワ・ボート
ジュネーブで時計づくりの諸工程を一つの工房に束ね、ジラール・ペルゴの源流となった時計師・宝飾商(1772-1837)
- BORN
- 1772年
- DIED
- 1837年
- BRAND
- ジラール・ペルゴ — 1791年創業
概要
ジャン=フランソワ・ボート(Jean-François Bautte、1772-1837)は時計師・宝飾商である。スイス・ジュネーブで孤児として育ち、12歳で徒弟に入った。金細工、ケース製作、ギヨシェ、時計づくりを身につけ、1791年に最初の自署入りの作品を出す。のちにケース、彫金、宝飾、組立の職人を自らの工房に集め、薄型時計や、楽器や花をかたどった時計で国外にも名を知られた。1906年にその商会を買収したジラール・ペルゴは、ボートが最初の時計に署名した1791年を自社の起点としている。
生涯
01孤児の徒弟時代
ジャン=フランソワ・ボートは1772年、ジュネーブに生まれた。スイス歴史辞典によれば、家系は南仏カストルにさかのぼる。七宝職人だった父は翌年に没し、1782年には母も世を去った。身寄りを失った少年は、12歳だった1784年に徒弟の道へ入る。
最初に学んだのは金細工と宝飾の仕事である。1790年にはケース組立職人ジャック=ドーファン・ムリニエ(Jacques-Dauphin Moulinié)の工房へ移った。そこで時計の外装を仕立てる技術を身につけている。修業時代に習得した職種は、ケース組立、ギヨシェ彫り、彫金、時計組立、宝飾、金細工に及ぶとされる。資料によって挙げる職種の並びには違いがある。一つの職種で親方を目指すのが普通だった時代に、これだけの工程を渡り歩いた経験が、のちの事業の土台になった。
1791年、19歳のボートは自らの名を刻んだ最初の作品を世に出した。
02ムリニエとの共同経営
修業を終えたボートは、師と手を組む道を選んだ。1793年、元の親方ムリニエと共同で、ケース組立を請け負う「ムリニエ・エ・ボート」を立ち上げる。商才のある若い共同経営者を得て、工房は他社向けのケースづくりから、自前の時計と宝飾品を売る商会へと性格を変えていく。
1804年にはジャン=ガブリエル・モワニエ(Jean-Gabriel Moynier)が加わる。社名は「ムリニエ・ボート商会」となった。この頃の商会は、ケースだけでなく、時計、宝飾品、オルゴール、装飾小物を幅広く手がけた。ボートは職人を次々に抱え込み、自前の生産拠点を整えていった。工房はローヌ通りの売り場を囲むように広がっていたと伝わる。
革命とナポレオン戦争の時代をはさみ、ジュネーブの政治的な立場は大きく揺れた。それでもボートの商会は、共同経営者の顔ぶれや社名を変えながら事業を広げ続けた。
03名声と晩年
ボートの名は、やがてジュネーブの外でも知られるようになる。パリに支店を、フィレンツェに販売所を構え、取引先はヨーロッパ各地の宮廷にとどまらなかった。品物はトルコ、インド、中国にまで輸出された。抜け目のない実業家としての顔が、職人としての腕と並んで評判を支えた。
ボートは1837年11月30日、ジュネーブで世を去った。65歳だった。事業は同じ年のうちに「ジャン=フランソワ・ボート商会」として再出発する。担い手は息子ジャック・ボートと、娘婿ジャン=サミュエル・ロセルである。創業者の名をそのまま社名に掲げたところに、その名の重みがうかがえる。
業績・代表作
01工程を一つ屋根の下に
18世紀のジュネーブでは、時計は多くの職人の手を経て完成した。ケース、文字盤、彫金、七宝、宝石留め、仕上げの各工程は、専門の職人が別々の仕事場で受け持つのが普通だった。同じ頃、ジュラ山地では部品を在宅の職人に割り振るエタブリサージュが広がっていた。
ボートはこの流れとは逆の道を選んだ。修業時代に渡り歩いた職種の職人を自らの工房に呼び集め、ケースづくりから宝飾、組立、販売までを一つの拠点で手がけたのである。スイス歴史辞典は、彼の工房が多くの職人を抱え、国際的な評判を得たと記す。ジュネーブ美術歴史博物館の解説によれば、職人の数は最大で300人に達した。ジラール・ペルゴは、この体制を時計史で最初のマニュファクチュールと位置づけている。
ただし、ここでいう統合は、自社製ムーブメントの有無で語られる現代のマニュファクチュールとは意味が異なる。史料からうかがえる統合の中心は、ケースや装飾、宝飾の工程にある。ムーブメントをどこまで自製したかは、はっきりしない。ボートが目指したのは、商品としての時計を自分の名で完成させるための体制だった。
02薄型時計と「形の時計」
ボートの名を時計史にとどめている製品は、二つの系統に分けられる。一つは薄型の時計で、ボートは薄型時計を早くから手がけた人物の一人に数えられる。懐中時計を装身具として持ち歩く上で、薄さは大きな意味を持った。
もう一つは、時計を別の物の姿に隠した「形の時計」である。ジラール・ペルゴの資料によれば、ボートの工房は小さな楽器、花、蝶などをかたどった時計を作った。弾丸の代わりに香水が出る拳銃形の品まで手がけている。同社は収蔵品として、1806年のムリニエ・ボート商会による一対の香水ピストルを紹介している。銃の一部に小さな時計を隠した品である。
03売り方の流儀
ボートは職人である以上に、売り手として際立っていた。アレクサンドル・デュマ(Alexandre Dumas)は、旅行記『スイス紀行』でこの店を取り上げた。ジュネーブの宝飾店の中で最も流行している店だと書いている。
同じ箇所でデュマは、ボートが手数料と引き換えに、品物を関税なしでフランスへ届けさせていたと書いている。添えられた逸話の主役は、フランス関税総局長のサン=クリック伯である。伯は噂を確かめようと店で宝飾品を買い、関税を払わずにパリの自邸へ届けるよう求めた。国境では部下に監視を命じて急ぎ帰ったが、自邸の暖炉の上には買った品が置かれていた。宿の使用人を通じ、伯自身の荷物に紛れ込ませてあったという。誇張を含む話として読むべきだが、ボートの商売が当時どう語られていたかを伝えている。
04業績を貫く考え
ボートの仕事を貫くのは、時計を機械である以前に、身につける工芸品として完成させる姿勢である。そのために必要な技を一か所に集め、製作から販売までを自分の名のもとに置いた。分業が主流だった時代に、品質と評判を一つの名前で引き受けるやり方を示した点に、彼の新しさがある。
評価・後世への影響
01継承とジラール・ペルゴへの合流
ボートの死後、商会は息子ジャックとロセルの手でジュネーブでの営業を続けた。ジラール・ペルゴが自社の収蔵品として挙げる品には、1850年のロセル銘の手持ち眼鏡(ファス・ア・マン)も含まれる。ジュネーブ美術歴史博物館によれば、1870年にはサン=ジェルヴェ地区の通りにボートの名が付けられた。
転機は1906年に訪れる。当時ジラール・ペルゴを率いていたのは、コンスタン・ジラール=ガレ(Constant Girard-Gallet)である。彼がボートの名を継ぐ商会を買い取った。以後、ジラール・ペルゴは自社の歴史を、ボートが最初の時計に署名した1791年から数えている。ブランドの年表がコンスタン・ジラールの創業より60年以上前から始まるのは、この買収による。
02文学と研究に残る名
ボートの店は、19世紀の文学にも痕跡を残した。デュマ、バルザックに加え、ジョン・ラスキン(John Ruskin)も晩年の自伝『プラエテリタ』でこの店を回想している。表には小さな真鍮の札があるだけで、路地と中庭を抜け、狭い螺旋階段を上った先にようやく売り場がある。カウンターには何も並べず、客は銀行を訪ねるときのような畏れを抱いて扉を押したという。
研究の面では、1950年にウジェーヌ・ジャケ(Eugène Jaquet)がボートを論じた論文を発表した。表題は、ボートをジュネーブの「ファブリック」の刷新者と呼んでいる。スイス歴史辞典の項目も、この論文を主要文献に挙げている。ファブリックとは、ジュネーブの時計・宝飾産業を担った職人と工房の総体を指す呼び名である。分業の網の中から一つの工房への統合を試みた人物として、ボートはジュネーブ時計史に位置を占めている。
出典
本文の執筆にあたって参照した資料。閲覧日は内容を確認した日を示す。
- 01 公式 Crafting History
- 02 公式 Jean-François Bautte: A Man of his Time
- 03 公式 Jean-François Bautte — fabricant d'horlogerie et de bijouterie
- 04 専門メディア Bautte, Jean-François
- 05 専門メディア Impressions de voyage : En Suisse, tome 1 (Calmann-Lévy, 1922)
- 06 専門メディア Praeterita (Library Edition, Vol. 35), p. 325
- 07 専門メディア Girard-Perregaux
- 08 専門メディア The acclaimed Jean-François Bautte