セイコー ニューシャテル天文台で上位
天文台コンクールで国産機が短期間にスイス勢の上位へ食い込み、機械式の精度競争が終幕を迎える前夜を象徴した。
概要
Overview1960年代、セイコーは精度を競う天文台コンクールへの参加を通じて国際的地位の確立を図った。諏訪精工舎と第二精工舎は1964年に機械式腕時計部門へ初参加したが、順位は合格にも届かなかった。だが数年で成績を伸ばし、1967年にはニューシャテル天文台コンクールでメーカー部門の上位に並んだ。同年を最後に腕時計部門は開かれなくなり、1968年には諏訪精工舎がジュネーブ天文台コンクールへ移り、機械式部門の上位に並んだ。最上位はスイスのクォーツ試作機だった。スイスが長く守ってきた競争の場で国産機が伍した事実は、後のクォーツ開発への自信にもつながった。
背景
Background19世紀以来、スイスの天文台は計時精度を競うコンクールを毎年開いていた。ニューシャテル天文台もその一つで、出品された時計を数日かけて複数の姿勢と温度で計測し、規定を満たした個体に天文台クロノメーターの証書を与えた。腕時計のほか懐中時計や置き時計など部門が分かれ、機械式と、後にはクォーツの部門も設けられた。順位は精度の優劣をそのまま映し、メーカーの技術力を公に示す場として権威を持っていた。
この競争では長くスイスのメーカーが上位を占め、外部の参入は容易ではなかった。一方、当時のセイコーは国内市場を主な顧客とし、海外での知名度は高くなかった。経営陣は国際市場へ踏み出す足がかりを求め、天文台コンクールでの成績がその有力な手段になると考えた。上位入賞は製品の信頼と企業の評判を国際的に高めると見込まれたためである。
挑んだのは諏訪精工舎と第二精工舎という二つの製造拠点で、それぞれ独自にムーブメントを仕立てた。出品に向けた調整は、両社の時計師が精度を限界まで追い込む作業でもあった。
出来事
The Eventセイコーが天文台コンクールに最初に名を連ねたのは1963年で、出品は水晶を用いた部門だった。機械式腕時計部門に諏訪精工舎と第二精工舎が初めて出品したのは1964年である。結果は諏訪が144位、第二が153位で、合格水準にも届かない出発だった。1965年には最高順位が114位まで上がり、1966年には個別ムーブメントの最高が9位、メーカー部門でも上位に入った。
1967年には個別ムーブメントの最高順位が4位に達し、メーカー部門ではオメガに次ぐ位置を占めた。ただし、この1967年がニューシャテル天文台で腕時計部門のコンクールが開かれた最後の年となった。翌1968年、同部門のコンクールは開催されなかった。
そこで諏訪精工舎は、同様の趣旨でジュネーブ天文台が開くコンクールへ出品先を移した。1968年のジュネーブでは、機械式腕時計部門で諏訪精工舎の個体が4位から10位までを占め、上位をほぼ独占した。出品機はいずれも毎時36,000振動の高振動ムーブメントだった。
もっとも、その上の1位から3位は機械式ではなかった。スイスの研究機関CEH(電子時計センター)が出品したクォーツ試作機が占めていた。クォーツの精度は機械式を大きく引き離しており、両者は同じ土俵になかった。ジュネーブ天文台のコンクールも、この1968年を最後に開かれなくなった。
意義
Significance天文台コンクールでの成績は、まず技術の到達点を公に示した。出品個体の精度をスイス勢の上位と競える段階まで引き上げたのは、テンプやヒゲゼンマイの調整を担う時計師たちの蓄積だった。コンクールのために磨かれた知見は量産機にも還元され、1968年に登場したグランドセイコー61系などの高精度自動巻に生かされた。
市場の面では、この成績が国産時計の国際的な評価を高める契機となった。コンクールが相次いで終わった理由には諸説がある。日本勢の躍進に対するスイス側の反発を一因とする見方があり、一方で、クォーツの登場によって機械式の精度競争そのものの意義が問われたとする評価もある。腕時計部門のコンクールは1968年を最後に開かれなくなった。
ニューシャテル天文台は、コンクールを開かなくなった後も個別の認定は続けた。第二精工舎は多数のムーブメントを提出して認定を取得し、合格した個体はセイコー天文台クロノメーターとして少数が市販された。
ジュネーブで上位を占めたクォーツ試作機は、精度競争の主役が交代しつつあることを示していた。セイコー自身もクォーツの開発を進めており、コンクールで得た自信は1969年の世界初のクォーツ腕時計へとつながっていく。