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腕時計史 · MILESTONE — 第2章 腕時計の誕生
1927

グライツの英仏海峡横断

広告では示せない防水性能を、一人の遠泳者の挑戦が裏づけた——ロレックスの宣伝のあり方を方向づけた1927年の出来事である。

§ 00 Overview

1927年10月、英国の遠泳者メルセデス・グライツは英仏海峡の横断に成功した。だが直後、別の泳者による虚偽の記録主張が彼女の達成に疑念を生む。名誉を回復すべく10月21日に再挑戦したグライツに、ロレックスは前年発表した防水ケースのオイスターを託す。水温が下がっていたため完泳には至らなかったが、首から下げた時計は10時間を超える浸漬の後も正確に時を刻んでいた。ロレックスはこの事実を捉え、防水性能を実地で証明する広告を展開する。この実証を製品の価値として語る宣伝の型は、後のアンバサダー戦略の原型となった。

§ 01 Background

1926年、ロレックスは密閉ケースとねじ込み式の竜頭を備えた防水時計オイスターを世に出した。

防水をうたう時計の試みは以前からあったが、過酷な実使用に耐えるかは確かめにくく、消費者の信頼を得るのは容易でなかった。腕時計そのものが懐中時計より華奢で壊れやすいという見方も根強かった。ハンス・ウィルスドルフは、工房の試験ではなく現実の環境で時計が耐えてみせる機会を求めていた。

一方、1920年代の英国では英仏海峡の遠泳が大衆の関心を集めていた。前年の1926年には米国のガートルード・エダリーが女性として初めて海峡を泳ぎ切り、遠泳熱はいっそう高まっていた。21マイルの冷たい海を泳ぎ切る挑戦は新聞の格好の話題で、成功した泳者は一夜にして名士となった。ロンドンでタイピストとして働きながら遠泳に打ち込んでいたメルセデス・グライツも、幾度かの失敗を重ねつつ横断を狙い続けていた。防水の証明という課題を抱えるウィルスドルフにとって、こうした注目を集める挑戦は、製品を試す格好の舞台になりえた。

§ 02 The Event

1927年10月7日、グライツは8度目の挑戦で英仏海峡の横断に成功した。フランスのカップ・グリ・ネから英国側へ、15時間15分をかけて泳ぎ切り、英国人女性として初の達成者となった。

ところが3日後、ドロシー・ローガンという女性が、より速い時間で海峡を泳いだと主張する。13時間台の世界記録と1,000ポンドの賞金が報じられ、グライツの達成は一時かすんだ。だがローガンはまもなく、泳いだ時間の大半を伴走船で過ごしていたと明かし、記録が虚偽だったと自ら認める。それでも一連の騒ぎで、グライツの達成にも疑いの目が向けられた。名誉を守るため、彼女は10月21日、のちに『ヴィンディケーション・スイム(名誉回復の泳ぎ)』と呼ばれる二度目の横断に臨んだ。

ウィルスドルフはこの機を逃さなかった。彼はグライツに、前年に発表したオイスターの一つを託す。時計はリボンで首から下げられた。10月下旬の海は最初の横断時より冷たく、水温は摂氏11度から14度ほどだったとされる。グライツは10時間24分にわたり泳ぎ続けたが、体力の限界から完泳には至らず、途中で船へ引き上げられた。

泳ぎ自体は未完に終わった。だが首から下げられたオイスターは、長時間の冷水浸漬と波の衝撃を受けてなお、止まることなく動き続けていた。グライツはのちにロレックスへ宛てた手紙で、時計が完全な水没に耐え、船室の高温へ移されても運針を乱さなかったと記している。

§ 03 Significance

この一件の意義は、技術そのものよりも市場との結び方にある。

ロレックスは泳ぎののち、防水性能を前面に出した宣伝を始めた。1927年11月24日には、デイリー・メール紙の一面に全面広告を掲載し、海峡の冷水に10時間以上耐えた事実を『海峡に屈しなかった時計』として訴えた。完泳の有無ではなく、時計が生き延びたという一点を価値として語ったのである。

ロレックスはこのとき、グライツを『テスティモニー』と呼んだ。製品を実地で試し、その性能を自らの体験として保証する人物という位置づけで、現代のブランドアンバサダーの原型にあたる。挑戦する個人の言葉と身体を製品の信頼の担保とする発想は、以後ロレックスが冒険家や運動家、専門家と結びついていく道筋を開いた。

1926年に登場したオイスターが拓いた防水の系譜は、ここで実証と宣伝という局面を加えた。過酷な現場での実績を製品の物語へ変えるこの語り口は、用途特化型の時計が広く受け入れられる素地となった。競技者の偉業と製品の性能を公に結びつけた早い例であり、後年、近代的なスポーツ後援の出発点とも評される。ロレックスは現在もこの出来事を、ブランドの転機として語り続けている。

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