IWC インヂュニア
磁場の中で働く者のために、耐磁と自動巻という二つの技術を一本にまとめる——IWCのインヂュニアは、道具としての時計をそう定義した。
概要
Overview1954年から翌年にかけて、IWCはインヂュニアを発表した。技術者や科学者を主な対象とし、産業現場で問題化していた磁気への耐性を中核に据えた時計である。動力には、テクニカルディレクターのアルバート・ペラトンが1950年に特許を得た爪式の自動巻機構を採用した。ムーブメント全体を軟鉄のインナーケースで覆い、文字盤や裏蓋が一体の磁気シールドを形作る。この構造により80,000A/mまでの磁場に耐え、当時のスイス規格を大きく上回った。耐磁シールドはマークXIで確立した原理の応用であり、それを新しい自動巻ムーブメントと組み合わせた点に、自動巻時代を迎えたIWCの方向が表れている。
背景
Background1950年代、産業と研究の現場では機械の電化が進み、発電機やモーター、各種装置のまわりには強い磁場が生まれていた。磁気は機械式時計の天敵である。テンプやヒゲゼンマイが帯磁すれば、振動の周期が乱れて時計は大きく狂う。日常的に磁場へ近づく技術者や科学者にとって、ふつうの時計は信頼に足る道具ではなかった。
IWCはこの問題に手がかりを持っていた。1948年、英空軍向けに開発したパイロット時計マークXIで、ムーブメントを軟鉄の内ケースで包む手法を確立していたからである。軟鉄は磁力線を引き寄せて自らの内部に通すため、中の調速機構が磁場の影響を受けにくくなる。
同じころ、時計は手巻きから自動巻へと重心を移しつつあった。IWCでも、1944年にテクニカルディレクターとなったアルバート・ペラトンが、効率の高い自動巻機構の開発を進めていた。当時の自動巻はローターの回転を一方向だけで利用するものが多く、動力の損失が大きかった。耐磁という守りの技術と、自動巻という動力の技術。この二つを一本の実用時計にまとめる素地が、1950年代初頭のシャフハウゼンには整っていた。
出来事
The Eventインヂュニアが市場に出たのは1954年、一部の資料では翌1955年とされる。型番はRef.666。日付を持たないRef.666Aと、3時位置に日付窓を備えたRef.666ADの二種があり、それぞれ自動巻キャリバー852と8521を積んだ。スチールと金のケースが用意され、径はおよそ36mmだった。文字盤には電気を表す稲妻の小さな記号が置かれ、想定する使い手を示していた。
動力部の核は、ペラトンが1950年に特許化した爪式の自動巻機構である。ローターの中心に偏心したハート型のカムを置き、ローターの回転をいったん揺動する棒の往復運動へ変える。棒には二つの爪が付き、一方が巻上げ車を引いて巻き上げる間、もう一方は歯の上を滑り、やがて役割が入れ替わる。これによりローターが左右どちらに回っても、どんな小さな動きも巻上げに使える。手巻きから自動巻への移行期にあって、効率の高い巻上げを狙った設計だった。
耐磁の仕組みは守りに徹していた。このムーブメントを軟鉄のインナーケースに収め、文字盤、ムーブメントを支えるリング、そして裏蓋が一体となって磁場を遮るシールドを形作る。マークXIで培った原理を、自動巻ムーブメントに合わせて作り直したものである。これにより80,000A/mまでの磁場に耐えた。当時スイスの耐磁時計に求められた基準は4,800A/mほどで、インヂュニアはその16倍を超える耐性を持っていた。脱進機の一部には磁気の影響を受けにくい合金も用いられた。
意義
Significanceインヂュニアの技術的な意味は、二つの系譜が一点で交わったところにある。一つは耐磁である。マークXIの軟鉄シールドを民生の実用時計へ移したインヂュニアは、磁気に抗する時計という考え方を一つの製品像として定着させた。同じ年にはロレックスがミルガウスを発表しており、磁場に耐える時計は1950年代の技術競争の主題となっていく。その流れは後年、非磁性素材による高い耐磁性能の追求へと続く。
もう一つは自動巻である。ペラトンの爪式機構は、わずかな腕の動きも左右両方向で巻上げに変える効率を持ち、後年のIWC自社キャリバーにも用いられる代表的な設計となった。爪式という発想自体も広がり、1959年にはセイコーが構造を簡素にしたマジックレバーを生んでいる。
射程は意匠にも及んだ。1967年に第2世代のRef.866へ更新されたのち、1976年にはジェラルド・ジェンタが手がけたインヂュニアSLが登場する。一体ブレスとビス留めのベゼルを備えたこのモデルは、同時期のノーチラスと並ぶラグジュアリースポーツの系譜に連なる。技術者の道具として生まれた一本が、二十年あまりを経て高級スポーツ時計の文脈へ置き直されたことになる。