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腕時計史 · MILESTONE — 第1章 起点とフォーマットの探索
1868

IWC創業(シャフハウゼン)

米国の機械生産とスイスの手仕事を一つの工場に束ねる——ジョーンズの構想は、職人の在宅分業を常識とした時計づくりへの挑戦だった。

§ 00 Overview

1868年、米国人の技術者で時計師のフロレンティン・アリオスト・ジョーンズが、スイス北部のシャフハウゼンでインターナショナル・ウォッチ・カンパニー(IWC)を創業した。彼の構想は、互換部品による米国式の機械量産と、安価で熟練したスイスの手仕事を一つの工場で結び、高品質な懐中時計のムーブメントを米国市場へ供給することにあった。当時のスイスでは在宅の職人による分業生産が主流で、工場集中の発想は西部の時計産地で反発を招いた。ジョーンズはライン川の水力を備えたシャフハウゼンに活路を見いだす。経営は長く続かず創業者は数年で去ったが、ドイツ語圏に根を下ろした工場生産の理念はその後も受け継がれた。

§ 01 Background

19世紀半ばのスイス時計産業は、ジュラ山脈沿いのフランス語圏を中心に発達していた。部品ごとに職人が自宅で加工し、それを組み上げる在宅の分業生産(エタブリサージュ)が主流で、熟練した手の技と低い人件費が競争力の源だった。一方、大西洋の対岸では事情が異なる。米国では互換部品と機械を使う量産方式が時計づくりに持ち込まれ、ウォルサムなどが工場生産で価格と量を実現していた。ただし米国の人件費は高く、輸入時計には関税が課されていた。

フロレンティン・アリオスト・ジョーンズは、ボストンの名門E.ハワード社で要職を務めた技術者だった。彼は米国式の機械生産を知る立場にありながら、スイスの手仕事の質と人件費の安さに目をつける。スイスで部品やムーブメントを作り米国へ運べば、米国製より安く高品質な時計を供給できる——そうした計算が、自らの工場を持つという構想へと結び付いていった。関税が将来引き下げられるという見通しも、その背中を押していたとされる。

§ 02 The Event

1868年、ジョーンズは同じ米国人時計師チャールズ・キダーを伴い、工場の適地を求めてスイスを巡った。当初の狙いは、時計づくりの本場であるフランス語圏の西部スイスに拠点を構えることだった。ところが工場集中の構想は、在宅で働く職人たちの反発を招く。彼らは自らの仕事を奪う脅威とみなし、ジョーンズを冷遇した。

転機は産業家ヨハン・ハインリヒ・モーザーとの出会いだった。モーザーはシャフハウゼンの時計商であると同時に、水力の先駆者でもあった。彼は1866年ごろにライン川へダムを築き、機械を回す安価な動力を確保していた。ドイツ語圏のシャフハウゼンは伝統的な時計産地から遠かったが、近代的な工場用地と豊富な水力という、ジョーンズの量産方式に欠かせない条件がそろっていた。加えてこの町には古くからの時計づくりの伝統があり、熟練の手も集めやすかった。

こうして1868年、ジョーンズはモーザーの工業施設の一角を借り、インターナショナル・ウォッチ・カンパニーを創業した。生産はシャフハウゼンの工場が担い、完成した製品は、販売拠点を置いたニューヨークのメイデンレーンへ送られた。創業まもなく仕上がった最初の自社ムーブメントは、創業者の名にちなんでジョーンズ・キャリバーと呼ばれた。フランス語圏を避け、ドイツ語圏に根を下ろした創業だった。

§ 03 Significance

IWCの創業が時計史に残した意味は、市場と産業のかたちにある。在宅の職人が部品を持ち寄る分業が当たり前だった時代に、設計から組み立てまでを一つの工場へ集める集中生産を持ち込んだ。米国式の機械量産とスイスの手仕事という、本来は別の系譜に属する二つを接ぎ木した点に、この会社の独自性があった。アメリカン・システムを担った米国の時計産業と、エタブリサージュに支えられたスイスの産業とが、シャフハウゼンの一点で交わっている。

立地もまた異例だった。スイスの時計づくりはフランス語圏に集中しており、ドイツ語圏のシャフハウゼンに本拠を置く大手は今日でも数少ない。ライン川の水力という地の利が、その例外を成り立たせた。

創業者ジョーンズ自身の事業は長続きしなかった。賃金の上昇や関税、急な増産が重荷となり、彼は1875年に米国へ戻る。会社はやがて経営者を替え、1880年にラウシェンバッハ家へ移った。それでも、ドイツ語圏に築かれた工場生産と一貫製造の理念は土地に残り、後年のパイロットウォッチや複雑機構を自社で手がける気風へと受け継がれていく。創業者は去っても、彼が選んだ場所と方法がIWCの性格を決めた。

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