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腕時計史 · MILESTONE — 第1章 起点とフォーマットの探索
1865

ゼニス創業

分業が当たり前の時代に全工程を一つの工場へ——ファーヴル=ジャコの選択は、スイス時計が拠り所とする自社一貫生産の出発点となった。

§ 00 Overview

1865年、22歳のジョルジュ・ファーヴル=ジャコがスイスのル・ロックルで自身の工房を開いた。部品ごとの分業生産が主流だった時代に、彼は鋳造から組立までの全工程を一つの工場に集める製造形態を打ち出す。後にマニュファクチュールと呼ばれる垂直統合の原型である。精度の追求にも力を注ぎ、天文台コンクールで数多くの賞を重ねた。自信作のキャリバーに付した『Zenith』の名は、1900年のパリ万博での受賞を経て1911年に社名となる。一貫体制と精度の蓄積は、後年のエル・プリメロへと受け継がれていく。

§ 01 Background

19世紀半ば、ジュラ山脈の谷々で営まれていた時計づくりは、部品ごとに作り手が分かれる家内工業が基本だった。ゼンマイ、歯車、文字盤、ケースといった部品は、各地に散らばる職人や、冬のあいだだけ手仕事に従事する農家によって別々に作られる。組立業者がそれらを買い集め、一本の時計に仕上げていく。この分業はスイス産業の土台を支えた一方で、部品の規格や品質にばらつきを生みやすかった。

ル・ロックルも、そうした谷間の町の一つである。古くから時計づくりが根づき、多くの作り手を抱えていた。

この頃、大西洋の向こうでは別の流れが生まれていた。ウォルサムやエルジンといった米国のメーカーが、互換性のある部品を用いた大量生産で、安価で信頼できる時計を送り出し始めていた。職人の手わざに支えられたスイスの生産に対し、機械化された工場が量と均質さで先行しつつある。分業を前提とした生産を組み替えられるかどうかが、現実の課題として浮かび上がっていた。

§ 02 The Event

1865年、22歳のジョルジュ・ファーヴル=ジャコは、ル・ロックルに自身の工房を構えた。9歳で学校を離れ、早くから時計づくりの道に入った人物である。20歳での結婚を機に、生家のファーヴル=ビュルからファーヴル=ジャコへと名を改めていた。

彼が打ち出したのは、谷間に散らばっていた各工程を一つの工場に集めるという発想だった。鋳造、圧延、打ち抜き、ケースや文字盤の製作まで、それまで別々の作り手が担っていた仕事を、同じ屋根の下に並べていく。部品の規格をそろえ、相互に交換できるようにすることで、完成した時計を一貫して作れる体制を築こうとした。今日でいう垂直統合であり、後にマニュファクチュールと呼ばれる製造形態の先駆けである。

工場はその後も拡張され、原材料の供給を効率化するために鉄道駅と結ばれた。1925年には従業員が1,000人に達する規模へと育つ。販路の開拓も早く、甥のジェームズ・ファーヴルが各国の市場を巡って販売網を広げた。

精度の証明にも早くから取り組んだ。1897年頃から天文台が主催するクロノメーターコンクールに参加し、競技用の高精度ムーブメントを送り込んでいく。世紀の変わり目には、自信作のキャリバーに天頂を意味する『Zenith』の名を与えた。1900年のパリ万国博覧会でこのキャリバーがグランプリを得たことが、名の評価を決定づける。やがて1911年、メゾンは社名そのものをゼニスへと改めた。

§ 03 Significance

ファーヴル=ジャコが築いた製造形態は、市場の論理として大きな意味を持った。分散していた工程を一つに束ねれば、品質の管理と量の確保を同時に進められる。この垂直統合の考え方は、後のスイス高級時計が掲げる『自社一貫生産』の先例となった。

精度の評判も、そのまま市場での力に変わった。天文台コンクールでの受賞は生涯を通じて積み重なり、通算で2,300個を超えたと伝えられる。観測所コンクールの歴史でも突出した実績とされ、『Zenith=精度』という像がブランドに定着していく。星を象ったロゴも、創業者が夜空に寄せた関心に由来するという。

この一貫体制と精度の蓄積が結実したのが、1969年のエル・プリメロだった。毎時36,000振動という高振動の一体型自動巻クロノグラフは、自社で機構を設計し作り切る力があってこそ生まれた。創業の地ル・ロックルで今も操業し、自社ムーブメントを作り続ける数少ないメーカーである点も、この出発点と地続きである。継続して操業する最古級のメーカーの一つでもある。スイス時計産業の通史のなかでゼニスは、谷間の分業からも米国式の量産からも一歩離れ、統合された製造所という第三の道を早くに示した。

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