ハリソン H4 海洋クロノメーター
海上で時刻さえ保てれば経度がわかる——この一点に生涯を賭けたハリソンのH4が、国を挙げた難題に一つの答えを返した。
概要
Overview1759年、イギリスの時計師ジョン・ハリソンは、懐中時計大の海洋クロノメーターH4を完成させた。当時、海上で経度を知るには正確な時刻が欠かせなかったが、揺れと温度変化の続く船上で時刻を保つことは難題とされていた。1714年の経度法は、これを半度以内で解く者に2万ポンドの懸賞を掛けていた。H4は1761年から翌年にかけてのジャマイカへの試験航海で、約81日の狂いをわずか5秒ほどに抑える。規定をはるかに上回る精度だった。賞金をめぐる委員会との争いは長く続いたが、H4は海上の精密計時を機械で成り立たせ、後の海洋クロノメーター、ひいては腕時計の精度文化の遠い源流となった。
背景
Background18世紀の航海者にとって、経度の測定は積年の難問だった。緯度は太陽や北極星の高度から比較的たやすく求められる。だが東西の位置を示す経度には、その手がかりがない。地球は24時間で360度回る。出航地の時刻と現在地の正午との差がわかれば、経度は導き出せる。問題は、揺れと温度変化の続く船上で、正確な時刻をどう保つかにあった。
位置の誤りは命に関わる。1707年、英艦隊がシリー諸島沖で座礁し、多数の将兵が失われた。この惨事もあって、議会は1714年に経度法を定める。海上で経度を半度(約30海里)以内で求める方法に2万ポンドを与えるという、当時として破格の懸賞だった。審査のため経度委員会が置かれたが、委員の多くは解を天文学に求め、機械式の時計に望みを託す者は少なかった。
ジョン・ハリソンは、ヨークシャーの大工から時計師へ転じた独学の人である。彼は時刻を保つ携帯時計こそ解だと信じ、生涯をこの一点に注いだ。1730年代に最初の海上時計H1を手がけて以来、H2、H3と改良を重ねたが、いずれも委員会の求める精度には届かない。大型機の限界を悟ったハリソンは、やがて発想を転じ、小さな『シー・ウォッチ』へと向かう。
出来事
The EventH4の製作は1755年に始まった。ハリソンは大型の海上時計を磨く方針を捨て、懐中時計に近い小型機へと舵を切る。1759年、その新型が完成した。直径はおよそ13センチ、重さは1.45キロほど。二重の銀ケースに納められ、外見は大ぶりの懐中時計に近い。だが内部は当時の常識を超えていた。振動数を高めたテンプ、温度変化を補正する仕組み、ダイヤモンドを用いた爪石、補助ぜんまいで動力を均す機構が組み込まれ、揺れる船上でも歩度を保つよう設計されていた。
完成しても、それを証す場が要る。経度法は実際の航海での試験を求めていた。ハリソンは当時68歳と高齢で、試験航海には息子のウィリアムが立った。1761年11月18日、ウィリアムはH4を携え、軍艦デプトフォードでイギリスを発ち、西インド諸島へ向かう。到着は翌1762年1月19日のジャマイカ。約81日の航海で、H4の狂いはわずか5秒ほどにとどまった。これは経度にして約1海里の誤差にすぎず、賞金が定める半度、すなわち約30海里を大きく下回る。
それでも経度委員会は満足せず、再試験を課した。1764年3月28日、ウィリアムは今度はタータ号でバルバドスへ向かう。航海の途中、彼はH4を頼りにマデイラ島への到達を正確に言い当て、計器としての実用性を示した。誤差は47日の航海で39.2秒と算定され、規定の三倍ほどにあたる精度を示した。二度の航海を経て、揺れる海上でも時刻を保てる携帯時計が成り立つことは、もはや疑いようがなかった。
意義
SignificanceH4の意義は、海上の精密計時という難題に、機械が確かな答えを返した点にある。揺れる船上でも秒の単位で精度を保てると示したことで、時計は携帯具から、位置を測る精密機器へと格を変えた。後世が海洋クロノメーターと呼ぶ計器の、実用的な先駆である。
もっとも、栄誉はすぐには訪れなかった。経度委員会はからくりの公開と複製の可能性を求め、賞金の支払いを渋る。1765年、ハリソンは委員会の前で機構を解体し、その仕組みを明かした。それでも与えられたのは賞金の半分にとどまる。残りを得たのは1773年、国王ジョージ3世の口添えを経てのことで、生涯に受け取った額は2万ポンドをいくらか上回ったと伝わる。
技術としての価値は、この紛争を超えて受け継がれた。H4の原理はその後の海洋クロノメーターに引き継がれ、複製機K1を携えたキャプテン・クックは、2度目の航海でその精度を頼みとしたと伝わる。19世紀には英海軍が艦へ標準装備していく。誤差を許さぬ精密計時という価値観は、やがて天文台コンクールや各種の認定制度を生み、懐中時計から腕時計へと続く精度競争へ流れ込む。本史が精度と認定の系譜としてたどる長い物語の、その遠い源流にH4は立っている。