GP 独帝国海軍向け腕時計
懐中時計が当然の時代に、軍の需要が腕時計の量産を先導したと伝わる——その真偽を含め、腕時計史の初期に置かれる一点である。
概要
Overview1879年ごろ、皇帝ヴィルヘルム1世がベルリンの見本市でジラール・ペルゴの試作腕時計を見て、翌1880年にドイツ帝国海軍の士官向けに約2,000本を発注したと伝えられる。腕時計がまだ女性の装身具と見なされ、男性は懐中時計を持つのが当然だった時代に、腕に着ける時計がまとまった数で注文された事例である。ジラール・ペルゴはこれを腕時計の本格的な量産の最初の例と称している。ただし現存する個体は確認されておらず、出所は後年の個人的な覚書に頼る部分が大きい。近年は史実性を疑う研究者も少なくない。事実と伝承を見極めつつ、市場史の一点として位置づける。
背景
Background19世紀後半、時計の主役は懐中時計だった。鎖でつなぎ、上着やベストのポケットに収めて持ち歩くのが男性の標準であり、腕に巻く小型の時計は女性の装身具と見なされ、男性が実用品として着ける発想はまだ広まっていなかった。
海軍の計時もまた、懐中時計とは別の体系で支えられていた。航海に必要な経度の算出には、艦に据えるボックス・クロノメーターや甲板用の精密時計が用いられ、個々の士官が私物の時計を持つ操作上の必然性は乏しかった。この点は、後に発注の史実性を問う議論の核ともなる。
一方でドイツでは、1871年の帝国成立を受けて海軍の整備が進んでいた。1872年に始まった建艦計画のもと、沿岸防衛を担う艦隊と士官の数は増えつつあった。
ジラール・ペルゴはスイスのラ・ショー=ド=フォンに拠点を置き、天文台コンクールでの精度と、3つの金橋を持つトゥールビヨンに代表される技巧で名を高めていた。創業者コンスタン・ジラールは、早くから時計を腕に着けるという考えに関心を寄せていたと伝わる。
出来事
The Event伝えられるところでは、発端は1879年のベルリンだった。皇帝ヴィルヘルム1世が見本市を訪れ、ジラール・ペルゴが手がけた試作の腕時計を目にする。皇帝はこれを気に入り、ドイツ帝国海軍(カイザーリヒェ・マリーネ)の士官向けに発注を行ったとされる。発注数は約2,000本と伝える記録が多い。一説には、まず1,000本が注文され、のちに同数が追加されたとも伝わる。納品は翌1880年ごろとされる。
時計そのものの仕様も、伝承の形で残る。ムーブメントの大きさは10ないし12リーニュほど、文字盤にはスモールセコンドを備えていたという。ケースは金製で、これは海上の塩水による腐食を避けるための選択だったと説明される。腕への固定には金属の鎖状ブレスレットが用いられ、文字盤の上には格子状の金属ガードがかぶせられ、ガラスや針を衝撃から守ったと伝わる。
ただし、この出来事を同時代に裏づける一次史料は見つかっていない。話の主たる出所は、創業者コンスタン・ジラールの息子コンスタン・ジラール=ガレが残した個人的な覚書とされ、ジラール・ペルゴの博物館に伝わる記述がこれを補う。発注を直接示す当時の公文書や注文書は、現在まで確認されていない。
現存する個体も一本として知られていない。ジラール・ペルゴは、このシリーズの真正な一本を発見した者に高額の報奨を提示したと伝えられるが、今日に至るまで該当する時計は現れていない。残るのは、社の所蔵する初期腕時計の図版と、いくつかの伝承だけである。
意義
Significanceこの逸話の市場史上の意味は、軍という大口の需要が腕時計の量産を促しうると示した点にある。腕時計が女性の装身具と見なされた時代に、職務上の都合から腕に着ける時計がまとまった数で求められた——後の第一次世界大戦の塹壕時計で全面化する構図を、先取りするものでもある。ジラール・ペルゴ自身もこれを腕時計の本格的な商業生産の最初の例と位置づけ、軍用時計の系譜(T7)の起点に置く語りが広く流布してきた。
もっとも、「最初」を事実として断定はできない。一次史料を欠くうえ、1880年の海軍士官に私物の腕時計を支給する操作上の理由が乏しいことから、話そのものを後世の伝承とみなす研究者は少なくない。腕時計の「最初」をめぐる主張は早い時期から錯綜しており、量産の先駆を称するこの逸話も、確たる物証を欠いたまま語られてきた。本史でも、確定した史実としてではなく、検証の余地を残す一点として扱う。
仮に発注が事実だったとしても、その流れはすぐには続かなかった。腕時計を奇異とする見方は当時なお根強く、量産は一過性に終わったと伝わる。腕時計が男性の実用品として定着するのは、20世紀に入り、戦場という極限が時計の着け方を変えてからである。