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腕時計史 · MILESTONE — 第1章 起点とフォーマットの探索
1875

オーデマ ピゲ創業

山あいの分業の谷に生まれた小さな工房は、創業家の手を離れぬまま、複雑機構を看板に掲げる独立メゾンとして残った。

§ 00 Overview

1875年、ジュール・ルイ・オーデマとエドワール・オーギュスト・ピゲは、スイス・ジュラ山中のヴァレ・ド・ジューにあるル・ブラッシュで工房を構えた。ともに谷の時計師の家に育った二人は、当初から複雑機構を備えた懐中時計を手がける。技術と製造をオーデマが、販売と経営をピゲが受け持つ役割分担で事業を進めた。1881年には商号をオーデマ・ピゲとして登録する。部品づくりを近隣で分け合う分業の伝統が、難度の高い機構を生む土壌となっていた。創業家による経営は途切れることなく今日まで続き、後のロイヤルオークへつながる礎がここに置かれた。

§ 01 Background

スイス西部、ジュラ山脈の高地に開けたヴァレ・ド・ジューは、18世紀以来の時計づくりの谷である。冬の長いこの地では、農閑期に農家が屋根裏へ小さな作業場を構え、ゼンマイや歯車、打鈴の部品を分けて作った。こうした家内の職人を束ね、部品を集め、調整し、組み上げて複雑な時計に仕立てる者をエタブリスールと呼ぶ。谷には親類や友人で結ばれた職人の網の目が広がり、難度の高い機構をまとめて作る力が蓄えられていた。

ジュール・ルイ・オーデマとエドワール・オーギュスト・ピゲは、いずれもこの谷の時計師の家に生まれた。オーデマは1851年、ピゲは1853年の生まれで、年齢も近く幼いころからの顔見知りだった。二十代でそれぞれ腕を磨き、オーデマは複雑なエボーシュ(半製品の機械)づくりを、ピゲは調整を得意とするようになる。

一方で、谷は試練のただ中にあった。1870年代にはアメリカの機械化された量産時計が市場へ流れ込み、手仕事に頼る谷の職人の暮らしを脅かしていた。冬を越せずに谷を離れる者も出るなか、古い分業の谷が量産の波にどう向き合うかが問われていた。

§ 02 The Event

1875年、二十代半ばのオーデマとピゲは手を組み、ル・ブラッシュに自分たちの工房を構えた。二人はまず他の時計師向けに仕事を請けつつ、自社の名でも時計を世に出していく。役割は早くから分かれていた。オーデマが製造と技術の全般を担い、ピゲが販売と経営、品質の管理を受け持つ。

二人は、簡素な時計から始めたのではない。創業の早い時期から、永久カレンダーやミニッツリピーターといった複雑機構を備えた懐中時計を手がけている。谷に蓄えられた職人の技を背景に、難しい時計を作り込む姿勢が出発点から一貫していた。

事業は着実に伸びた。記録では、1882年から1892年までの十年で1,600本近い時計を世に送り、その大半が何らかの複雑機構を備えていたと伝わる。複雑機構への傾倒は創業者の存命中も貫かれ、1899年には多数の機構を一個に収めた懐中時計を完成させている。

商号が整うのは創業から数年を経てのことだった。1881年、二人は会社をオーデマ・ピゲ商会(Audemars, Piguet & Cie)として正式に登録する。谷には古くからオーデマやピゲの姓を名乗る時計師がおり、近隣には同名の競合もあったが、二人の名を並べた商号がここに定まった。20世紀の初めでも年産はおよそ500本にとどまり、量より複雑さを追う小規模なメゾンの性格は、この時期にすでに形づくられていた。

§ 03 Significance

創業の意味は、市場という軸で見るとき際立つ。オーデマ・ピゲは、創業家による経営を今日まで途切れさせていない。多くの名門が買収や統合を経てグループの傘下に入る中で、創業者二家の系譜が経営を握り続ける独立メゾンは数少ない。

もう一つは、複雑機構を看板に据えた高級路線である。簡素な時計ではなく難しい機構から事業を始めた選択は、安価な量産品と一線を画す方向を早くから定めた。ミニッツリピーターや永久カレンダーを束ねるグランドコンプリケーションの伝統は、創業期から代を超えて受け継がれていく。

この工房は、後のロイヤルオークを生む母体となった。1972年、ジェラルド・ジェンタの手によるステンレスの高級スポーツウォッチは、複雑時計の名門という土台があってこそ世に問えたものだった。クォーツの波がスイスの機械式を揺さぶる時代に、この一作がメゾンを支える。1875年の二人の出会いは、スイス時計産業の通史の中で、独立と複雑機構を貫く系譜の出発点として位置づけられる。

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