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腕時計史 · MILESTONE — 第1章 起点とフォーマットの探索
1881

服部金太郎 服部時計店創業

輸入時計の販売と修理から始まった一軒の店が、やがて国産時計製造の中核へ育っていく——その出発点が1881年の京橋にあった。

§ 00 Overview

1881年、21歳の服部金太郎は東京・京橋采女町に服部時計店を創業した。前身は1877年に開いた服部時計修繕所で、当初は中古の時計を仕入れて修繕し、売る小さな店だった。当時の日本では国産の時計製造はまだ黎明期にあり、市場に出回る時計の多くは外国商館を通じた輸入品だった。金太郎は支払い期日を厳守する商法で商館の信頼を得て、輸入時計の卸・販売へ事業を広げる。この販売の基盤が、1892年の精工舎設立による製造への進出を支えた。輸入販売から国産製造へ進む日本時計産業の歩みは、この一軒の店から始まる。

§ 01 Background

19世紀後半の日本で、時計はまだ身近な道具ではなかった。社会の時間意識を変えたのは、1872年末に布告された改暦である。江戸時代は日の出と日の入りを境に昼夜を分ける不定時法で、一刻の長さは季節によって変わった。翌1873年からは太陽暦が用いられ、一日を等しい24時間に分ける定時法へ移る。正確な時刻を知る必要が広まり、時計の需要は少しずつ育っていく。

とはいえ、国産の時計製造は始まったばかりだった。欧米品を手本に懐中時計を試作する者は現れていたが、その数は乏しい。市場の時計はほとんどが輸入品で、仕入れ先は横浜や神戸の開港地に構えた外国商館に限られた。

服部金太郎は、1860年に江戸・京橋采女町で古物商の家に生まれた。13歳のころ時計商を志し、日本橋や上野の時計店で修理と商いを学ぶ。1877年には実家に戻り、服部時計修繕所の看板を掲げて独立した。中古時計を直しながら開業資金を蓄え、自らの店を構える準備を進めていた。

§ 02 The Event

1881年12月、21歳の服部金太郎は京橋采女町の自宅近くに服部時計店を開いた。1877年に始めた服部時計修繕所を母体とする、修理と販売の店である。扱う品の中心は中古時計だった。古道具屋や質流れの時計を安く仕入れ、手を入れて売ることで利益を重ねていく。

事業を伸ばす契機は、外国商館との取引にあった。1883年、店を銀座の裏通りへ移すと、横浜の商館と取引を始め、輸入時計の販売へ踏み出す。当時の日本には、盆暮れにまとめて支払う掛け売りの慣習が根強く残っていた。商館は30日以内の決済を求めたが、これを守らない商店も少なくなかった。金太郎は内外の別なくこの約定を守り通し、商館の信頼を得る。

信頼は仕入れの優位となって返ってきた。質の良い品や目新しいモデルを、商館がまず服部時計店へ回すようになる。輸入時計は中古の商いより扱う額も大きく、やがて店の主力となった。仕入れの強みは販売の伸びに直結し、1886年ごろの好景気を境に、金太郎は舶来時計の卸・販売へ重心を移していく。

店の成長は立地にも表れた。創業から6年後の1887年、服部時計店は商業の中心地である銀座四丁目の表通りへ進出する。中古時計の修理から出発した小さな店は、数年のうちに輸入時計を扱う有力な卸・小売へと姿を変えていた。

§ 03 Significance

服部時計店の創業は、日本の時計産業が販売から製造へ進む歩みの出発点となった。金太郎は輸入時計の卸・販売で築いた資本と販路を土台に、1892年、製造部門の精工舎を設立する。掛時計に始まり、やがて懐中時計、そして1913年には国産初とされる腕時計ローレルへと、製造の領域を広げていった。

輸入販売から国産製造への転換は、市場の構造を塗り替えた。時計の大半を外国商館に頼っていた市場に、設計から生産、販売、修理までを一手に担う企業が現れる。販売で培った市場の理解と顧客の信用が、製造業への参入を支えた。

金太郎が持ち込んだ商習慣の刷新も見落とせない。期日を守る取引は、信用を基盤とする近代的な商業のかたちを時計業界に根づかせた。輸出にも事業を広げた金太郎は、後に東洋の時計王と称される。1924年には製品にSEIKOの名が用いられ始めた。

日本の時計産業を一本の流れとしてたどるとき、その源流はこの一軒の店に行き着く。精工舎の国産懐中時計やローレル、後のクォーツ革命やグランドセイコーへ連なる道は、1881年の京橋から始まった。

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