ラトラパント
重ねた二本の秒針で中間時間を計測する分割秒針機構。19世紀の発明を礎に20世紀に腕時計化された複雑機構の代表格
- INVENTOR
- ヨゼフ・タデウス・ウィナール
- YEAR
- 1838
- CLASS
- 計時 · クロノグラフ
- 搭載モデル
- 1 本
概要
ラトラパント(Rattrapante)は、文字盤中央に重ねた二本の秒針を備え、片方を独立して停止・追従させられるクロノグラフの派生機構である。フランス語「rattraper(追いつく)」に由来し、英語ではsplit-seconds chronograph、ドイツ語ではDoppelchronographとも呼ばれる。1838年頃にヨゼフ・タデウス・ウィナールが二本の秒針を重ねた機構を考案し、1844年にアドルフ・ニコルがゼロ復帰用のハート型カムで特許を得た。腕時計では、1923年に販売されたPatek Philippeの個体が現存最古級とされる。通常のクロノグラフより部品点数が大きく増えるため、高級複雑機構の代表格に位置づけられる。
仕組み・原理
01基本動作
ラトラパントは、文字盤の中央軸に二本の秒針を重ねて配置し、両者を同時に始動させた後、片方だけを独立して停止・再起動できる派生クロノグラフである。停止された秒針は中間時間を示し、もう一方の秒針は計時を続ける。再びラトラパント用のプッシャーを押すと、止まっていた秒針は瞬時に走行中の秒針へ追いつく。この「追いつく」動作こそ、フランス語rattraperの名の由来である。
操作には通常、三つのプッシャーが用いられる。始動・停止、リセット、そしてラトラパント(分離・追従)である。クロノグラフの始動・停止・リセットを一つのボタンにまとめ、ラトラパント用のボタンだけを別に設けたモノプッシャー方式の実装もある(F.P. Journeのクロノグラフ・モノプッサン・ラトラパントなど)。用途としては、ラップタイム計測、並行する二事象の比較計時、競技時の中間タイム確認などが挙げられる。
02二重秒針とハート型カム
伝統的なラトラパントは、二つのコラムホイールを軸に構成される。一つは通常のクロノグラフの始動・停止・リセットを司り、もう一つがラトラパント秒針の分離と再結合を制御する。
文字盤の中心軸は二重構造になっており、内側の軸にラトラパント秒針が、外側の軸にクロノグラフ秒針が取り付けられる。両者の同期は、ラトラパント車に固定されたハート型カム(heart cam)と、その最深部に押し付けられたバネ仕掛けのレバーによって保たれる。ラトラパントボタンが押されると、二つの爪状のクランプがラトラパント車を挟み込み、その回転を瞬時に止める。クロノグラフ秒針側は走行を続け、両秒針が分離する。ボタンを再度押すとクランプが開き、バネに押されたレバーがハート型カムの最深部へ滑り戻ることで、止まっていた秒針が走行中の秒針の位置へ瞬時に追いつく仕組みである。
03アイソレーターと近代の改良
設計上の難点は、ラトラパント秒針が止まっている間、走行を続けるクロノグラフ車のカム面とレバーが擦れ合い、摩擦が生じることにある。この摩擦は主機構のテンプ振幅低下を招き、精度に影響する可能性が指摘されてきた。これを抑える仕組みがアイソレーター(isolator)で、分離中の接触を物理的に断ち、摩擦を最小化する。
Patek PhilippeのCHR 29-535 PSや、A. Lange & SöhneのTriple Split(Cal. L132.1)はアイソレーターを備える。アイソレーターの有無や方式は実装ごとに異なる。
歴史
0119世紀の萌芽
分割秒針の概念は、19世紀前半のフランス系時計学に起源を持つ。1827年、ルイ=フレデリック・ペルレが二本の秒針を持つ時計を発表し、1828年に特許を得た。これは分割秒針の先駆とされる。続いて1831年、パリで活動していたオーストリア出身の時計師ヨゼフ・タデウス・ウィナールが、ムーブメント全体を止めずに秒針だけを停止・再始動できる懐中時計(クロノスコープ)を発表した。
ウィナールはこの研究を発展させ、1838年頃までに二本の重ねた秒針を持つ最初の分割秒針機構を完成させた。これが現在ラトラパントと呼ばれる構造の起点とされる。ただし初期のウィナール式は両秒針をゼロ復帰させることができず、実用面に限界を抱えていた。
02ニコルによる現代型の確立
スイス・ヴァレー・ド・ジュー出身でロンドンを拠点としていたアドルフ・ニコルは、1844年にハート型カム(zero-reset heart cam)による即時ゼロ復帰機構の特許を取得した。この心臓部とも言える部品は、現在もほぼすべての機械式クロノグラフに使われ続けている。
1862年、ニコルはこの機構を懐中時計に組み込み、現代のクロノグラフが備える三機能、すなわち始動・停止・リセットを単一の時計内で実現した。同設計はラトラパント秒針への応用にも開かれており、その後の発展の土台となった。オーギュスト・ボーは、クロノグラフとラトラパント機構を裏蓋側へ移し、調整を容易にした。その時期は1880年頃とも1868年とも記される。
03腕時計化と20世紀の到達点
懐中時計のラトラパント機構が腕時計サイズに収まるまでには長い時間を要した。ラトラパント付きの腕時計クロノグラフは1912年頃に現れたとされ、当初のムーブメントは懐中時計ほどの大きさだった。Patek Philippeのムーブメント番号124824は1923年10月に完成・販売された個体で、現存する最古の分割秒針クロノグラフ腕時計とされる。この個体は1999年のアンティコルムで約200万米ドル、2014年のサザビーズで約290万米ドルで落札され、後者でPatek Philippe ミュージアムの所蔵となった。
その後ラトラパントは長らく高級複雑機構として少数生産の領域に留まったが、1992年、IWCの技術者リチャード・ハブリングが汎用ムーブメントValjoux 7750にカム式の分割秒針モジュールを加える方式を設計し、IWCはこれを特許化した。IWC Pilot Doppelchronograph Ref.3711(1992年)などに搭載されたこの機構は、組立と調整が容易で、ラトラパントの普及に寄与した。特許失効後の2012年には、ハブリング自身のブランドHabring²が改良版を載せたDoppel 2.0を発表している。
04多軸ラトラパントの登場
派生機構の到達点として、A. Lange & Söhneは2004年にDouble Splitを、2018年にTriple Splitを発表した。前者は秒と分の両方を分割可能とし、ラップタイム計測の範囲を従来の60秒から30分に拡張した。後者はさらに時の積算計にもラトラパントを加え、最長12時間の比較計時を可能にした。同社によれば、複数時間にわたる比較計時ができる初の機械式ラトラパントである。
代表的な実装
Patek Philippe Ref.5370は、現代の伝統的ラトラパントの典型例である。搭載されるCal.CHR 29-535 PSは手巻き・コラムホイール・水平クラッチという古典的構成に7件の特許技術を加えたもので、部品数は312個である。Patekは2005年のRef.5959で、発表当時最薄(5.25mm)の分割秒針キャリバーCHR 27-525 PSも送り出している。
A. Lange & Söhneは2004年のDouble Split以降、ラトラパント機構の限界を更新し続けている。2018年のTriple SplitのCal. L132.1は567部品から構成され、Double SplitのL001.1を基に開発された。秒・分・時の三対すべてを独立して分離・再結合できる。
IWCは1992年のDoppelchronograph Ref.3711で、Valjoux 7750にハブリング式のカム機構を組み合わせる方式を導入した。この機構はPilot DoppelchronographやPortugieser Rattrapante Chronographなどに展開された。同設計の系譜はHabring²のDoppel 2.0、Doppel 3.0、Doppel-Felixに引き継がれている。
F.P. Journeのクロノグラフ・モノプッサン・ラトラパントは、クロノグラフ操作を一つのボタンにまとめ、4時位置にラトラパント用のボタンを置く。80時間のパワーリザーブとビッグデートを備える。
この機構を搭載する 1 本のモデル
出典
本文の執筆にあたって参照した資料。閲覧日は内容を確認した日を示す。
- 01 公式 RATTRAPANTE MECHANISM
- 02 公式 TRIPLE SPLIT | A. Lange & Söhne
- 03 公式 CHRONOGRAPHE RATTRAPANTE
- 04 公式 Grand Complications ref. 5370R-001 Rose Gold | Patek Philippe
- 05 専門メディア CHRONOLOGY OF THE CHRONOGRAPH
- 06 専門メディア Habring2 Doppel-Felix (by the man who created the IWC Doppelchronograph) - Monochrome Watches
- 07 専門メディア A. Lange & Söhne Refreshes the Triple Split in Style | SJX Watches
- 08 専門メディア News: Habring² Doppel 2.0 for the anniversary of the Doppelchronograph
- 09 専門メディア A. Lange & Söhne Triple Split: Platinum and Rattrapante
- 10 オークション IWC The New York Watch Auction: NINE
- 11 オークション Patek Philippe Game Changers
- 12 オークション (#175) Patek Philippe