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腕時計史 · MILESTONE — 第5章 クォーツ革命とクォーツショック
1983

スウォッチ誕生

安価なプラスチックの量産時計が、傾いたスイス時計産業の再生を支える——スウォッチはその逆説を体現した一本である。

§ 00 Overview

1983年3月1日、スイスのチューリッヒで腕時計スウォッチが発売された。開発はETAのエルンスト・トムケが率いる技術陣が担った。簡素な一体構造と組み立ての自動化により、部品を51点に絞って低価格を実現した。販売では、時計を着替えに合わせて選ぶファッション小物として打ち出す戦略がとられた。クォーツショックで苦境に陥ったスイス時計産業にとって、日本勢に奪われた安価な量産市場へ量で再参入する足がかりとなった。

§ 01 Background

1970年代、日本製の安価なクォーツ時計が世界市場を席巻し、機械式に依存したスイス時計産業は深刻な打撃を受けた。二大グループのASUAGとSSIHはともに経営難に陥り、再編が避けられない状況にあった。

この局面で問われたのは、スイスが安価な量産市場をどう取り戻すかだった。高級路線だけでは産業の裾野を支えきれず、日本勢と価格で渡り合える製品が要る。だが人件費の高いスイスで安い時計を作るには、生産そのものを根本から変える必要があった。

ムーブメント製造のETAでは、薄型時計デリリウムの開発を通じて、機構をケース裏蓋側に組み込む構造が量産品にも応用できると見られていた。技術者エルマー・モックは電子部品向けの樹脂成形を研究するなかで、同じ射出成形で時計のケースを作れることに気づく。経営コンサルタントのニコラス・ハイエックは、ASUAGとSSIHの統合と並んで、スイス製の安価なクォーツ時計を投入する戦略を提言したと伝わる。

§ 02 The Event

1983年3月1日、チューリッヒでスウォッチが正式に発表された。発表はトムケによる記者会見の形をとり、最初のコレクションは12モデル、価格は39.90〜49.90スイスフランで、同年秋に50フランへ統一された。

製品の核心は構造の簡素化にある。ケースは一体成形のプラスチックで、その裏側がムーブメントの地板を兼ねる。これにより部品点数は当時一般的な90点前後から51点へと減った。ケースは超音波溶着で密閉され、防水性をもつ一方、開閉も修理も前提としない。組み立ては自動化され、人件費の高いスイスでも低価格での量産が可能になった。

設計はトムケが統括し、技術者のエルマー・モックとジャック・ミュラーが具体化した。ここに外部の視点を加えたのが、マーケティングコンサルタントのフランツ・シュプレヒャーである。彼は時計を実用の道具ではなく、服や靴のように装いで持ち替えるファッション小物——いわゆるウォッチ・ワードローブの対象——として売り出す方針を打ち出した。

スウォッチという名称は『セカンド・ウォッチ』の短縮とされるが、『スイス・ウォッチ』に由来するとの説もある。積極的な広告と、スイス製にしては手頃な価格が結びついて本国市場で早くから人気を集め、発売初年に掲げた100万本の販売目標を達成した。

§ 03 Significance

スウォッチの意義は、まず市場のあり方を変えた点にある。腕時計を、一本を長く使う耐久財から、何本も持つ消費財へと押し広げ、買い替えと買い増しの需要を生み出した。価格と量で日本のクォーツ勢に正面から対抗できる足場を、スイスは取り戻した。

この量産品が生む収益は、産業全体の立て直しを支える原資となった。1985年、コンサルタントだったハイエックは投資家とともに統合グループ株式の過半を取得し、経営の主導権を握った。彼はスウォッチの販売とブランド戦略を前面に押し出した。統合グループは後にSMHと名を変え、1998年にはスウォッチ・グループとなる。スウォッチ自体も限定版や芸術家との協業を通じて収集の対象となり、低価格品でありながらブランドの価値を押し上げた。

皮肉なのは、プラスチックの量産時計が機械式の伝統を生かす側に回った点である。安価なスウォッチが現金を生み、その利益が背後の高級ブランド群を維持する。量が質を支えるこの構図は、現代のスイス時計産業の収益モデルの原型となった。なお、ハイエックを単独の立役者とする語りは後年に整えられた面もあり、製品そのものはトムケらETAの開発陣の手から生まれている。

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