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腕時計史 · MILESTONE — 第5章 クォーツ革命とクォーツショック
1980

クォーツショックとスイス産業再編

精度では電子に勝てない——その現実がスイスに突きつけたのは、機械式時計の価値をどこへ置き直すかという問いだった。

§ 00 Overview

1970年代から1980年代初頭にかけて、スイスの時計産業は深刻な縮小に見舞われた。安価で正確なクォーツが普及し、フラン高や不況も重なって、輸出も雇用も大きく落ち込む。企業数は1970年に約1,600あったものが1980年代半ばには600ほどへ減ったとされる。経営難に陥った二大グループ、ASUAGとSSIHは1983年に統合され、後にSMH、さらにスウォッチ グループとなる母体が生まれた。この再編は機械式時計を日用品から技巧と文化の対象へと位置づけ直す転換点でもあり、現在の高級路線に連なる起点となった。

§ 01 Background

第二次大戦後、スイスの時計産業は世界市場で大きな地位を占めていた。戦時下も中立国として民生用の時計を作り続けられたことが、戦後の優位につながったとされる。1970年前後には、世界の時計輸出のおよそ半分をスイスが握っていたという推計もある。

もっとも、その産業構造には弱さも潜んでいた。ジュラ地方を中心に、部品メーカーや小規模ブランドが分業で結びつく形が長く続いていた。全体をまとめる大きな企業集団は1970年代後半になっても現れず、生産と販売の戦略を一本化しにくい体質が残っていた。

通貨の環境も追い風だった。ブレトンウッズ体制のもとでフランの対ドル相場は固定され、低めに保たれていた。この安定がスイス製時計の価格競争力を支え、量産体制への転換を急ぐ動機を弱めた。

そこへ新しい技術が近づいていた。1969年に登場した世界初のクォーツ腕時計アストロン(#087)が、機械式とは桁の違う精度を、いずれ安価に実現しうることを示していた。競争の土俵が精度から価格と量産へ移りつつあったのである。

§ 02 The Event

1971年にブレトンウッズ体制が崩れ、フランは変動相場へ移って急騰した。1970年から1974年にかけて対ドルで6割近く上昇したとされ、1978年にも短期間で大きく値を上げた。品質は変わらないのに、スイス製時計は国外で割高になり、輸出競争力を失っていく。

クォーツの低価格化も、これに追い打ちをかけた。日本や香港のメーカーが集積回路や水晶振動子を量産で安く供給し、正確で手頃な時計を大量に市場へ送り込んだ。スイスの機械式時計の輸出は、1973年の約4,000万個から10年ほどで数百万個規模へ落ち込んだという推計がある。石油危機後の不況も需要を冷やした。

産業の従業者は1970年の約9万人から、1980年代半ばには3万人台まで減ったとされる。1970年から1985年の間に、就業者のおよそ6割が職を失ったという見方もある。企業の倒産や廃業も相次いだ。

経営危機の中心にいたのが、二大グループのASUAGとSSIHである。ASUAGは1931年設立で部品やムーブメントを束ね、SSIHは1930年にオメガとティソの統合から生まれていた。1980年前後には両社とも経営破綻の瀬戸際に立っていた。

債権者である銀行団は、経営コンサルタントのニコラス・G・ハイエックに再建策を委ねた。後に「ハイエック報告」と呼ばれる提言の柱は、ASUAGとSSIHの統合だった。両社は1983年に合併し、持株会社ASUAG-SSIHが発足する。1985年にはハイエックを中心とする投資家連合が約1億5,100万フランで過半数の株式を取得し、会社は後にSMHへ改称された。

§ 03 Significance

この再編が市場にもたらした変化は、まず産業構造の組み替えである。分業で散らばっていたブランドと部品メーカーが、一つの大きな企業集団のもとへ束ねられた。ばらばらだった生産と販売を統一して動かす体制が、ここで初めて整い始める。ムーブメント供給を担う部門は後にETAへとまとまり、業界全体の基盤となった。1990年代に進むブランドの集約(#110)は、この骨格の延長線上にある。

もう一つは、機械式時計の意味づけの転換である。正確さと手頃さで電子式に勝てないことがはっきりした以上、機械式が立つ場所は別のところに求めるほかなかった。日用の計時の道具という役割は薄れ、手仕事や歴史、所有する喜びといった価値へと重心が移っていく。今日へ続く高級路線の発想は、この時期の方向転換に源がある。

再建のもう一本の柱が、低価格で量産できるスイス製の時計だった。1983年に登場したスウォッチ(#096)がその役を担い、産業に資金と時間の余裕を取り戻していく。

クォーツショックは、しばしば技術の敗北として語られる。だが実際には、通貨高や産業構造の硬直も深く関わっていた。技術の交代をきっかけに、スイスが自らの価値の置き場所を問い直した出来事として、本史の市場の軸に位置づけられる。

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