尚工舎時計研究所 設立(シチズン前身)
舶来品に頼る日本の時計市場で、国産化という目標を掲げて生まれた研究所が、後にシチズンへと育つ起点となった。
概要
Overview1918年、銀座で貴金属商を営んでいた山崎亀吉が、東京の上戸塚に尚工舎時計研究所を設立した。当時の日本は懐中時計の多くを輸入に頼り、国産は精工舎などが手がけ始めた段階にあった。山崎は海外視察でアメリカの大量生産を目にし、輸入中心の市場で国産時計を作ろうと決意したと伝わる。研究所は当初スイスからの輸入部品を組み立てる工房だったが、やがて工作機械を導入し、技術者を育てる学校も開いた。1924年には自製の懐中時計を完成させ、これがシチズンへと続く流れの始まりとなる。日本の時計産業に、精工舎に続くもう一つの源流を加えた一歩であった。
背景
Background明治の改暦以降、日本では西洋式の定時法が定着し、掛時計や懐中時計の需要が高まった。だが国内に十分な供給力はなく、需要の多くは輸入品で賄われていた。開国以来、スイス製の掛時計や懐中時計が流入し、米国のウォルサムなどの懐中時計は、鉄道職員へ貸与される時計として使われていた。
国産化の試みがなかったわけではない。服部金太郎の精工舎は1892年に設立され、1895年には国産の懐中時計を世に出していた。掛時計から懐中時計へと、国産の製造基盤は少しずつ育ちつつあった。それでも精度と価格の両面で舶来品が優位を保ち、国産はなお発展の途上にあった。
第一次世界大戦は、この構図を揺さぶった。1914年に始まった大戦で欧州の工業力が軍需へ向かい、輸入に頼る市場のもろさが意識される。一方で大戦下の好況は国内の工業を活気づけ、新たな製造業が育つ素地ともなった。工業製品の自給という課題のなかで、時計の国産化への機運も高まっていった。
出来事
The Event尚工舎時計研究所を興した山崎亀吉は、もとは銀座で貴金属商を営む商人だった。明治30年代には東京時計商工業組合の筆頭幹事を務め、時計の流通に通じていた。海外を視察した際、アメリカで懐中時計が大量に作られる様子を目にし、輸入中心の日本でも国産時計を作れると考えたと伝わる。
1918年、山崎は東京市外の上戸塚、現在の高田馬場にあたる地に尚工舎時計研究所を設立した。名は、すでに営んでいた、懐中時計ケースを製造する尚工舎に由来する。研究所と名乗ったのは、製造そのものがまだ手探りで、技術を確立する段階にあったことを映している。
当初の仕事は、スイスから取り寄せた部品を組み立てることだった。だが山崎は組立にとどまらず、自前の製造へ進もうとする。欧米から工作機械を輸入し、部品を削るための工作機械までも自社で作り始めた。輸入部品の組立から始め、国内でまかなえる部分を少しずつ増やしていく。技術者を育てる時計学校も設け、職人の育成と製造技術の蓄積を並行して進めた。
製造の習得は容易ではなかった。微細な歯車やテンプを国内で一から削り出す体制づくりには、設備も人も時間も要った。創立からおよそ6年を経た1924年、研究所は初めての自製の懐中時計を完成させる。輸入部品の組立から、設計と部品製造を含む一貫生産へ。国産化という当初の目標に、ここで一つの形が与えられた。この懐中時計が、やがてシチズンへと続く流れの出発点となる。
意義
Significance尚工舎時計研究所の意義は、市場の側から見えてくる。輸入品が主役だった日本の時計市場に、国産化を掲げる新たな作り手が現れた。すでにあった精工舎と並び、日本の時計産業はここで二つの源流を持つことになる。後の通史でセイコーとシチズンが二大ブランドとして並び立つ、その一方の起点である。
もっとも、研究所そのものの歩みは順風ではなかった。後に貴族院議員となった山崎が政治活動に傾くなかで経営は揺らぎ、1920年代半ばには労働争議などに見舞われたと伝わる。それでも蓄えられた設備と人は失われなかった。スイスの時計商の日本代表だった中島與三郎らが事業を引き継ぎ、1930年のシチズン時計株式会社設立へとつながっていく。研究所は会社という形を得て、生産を本格化させる段階へ進んだ。
懐中時計から腕時計へ、そして量産へ。尚工舎が踏み出した一歩は、舶来品に頼る市場の構造を、国内の作り手が内側から変えていく長い過程の始まりだった。輸入部品を組み立てる工房から、設計と部品まで自ら手がける製造者へ。輸入の組立から自製へという歩みは、後発で出発した日本の時計づくりに共通する道でもあった。一商人の国産化への志が、やがて世界へ広がる量産メーカーの遠い起点となった。