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腕時計史 · MILESTONE — 第2章 腕時計の誕生
1913

セイコー ローレル(国産初の腕時計)

腕時計がまだ装身具とみなされた時代、精工舎は懐中で培った技を小さなケースに収め、国産の腕時計づくりへ踏み出した。

§ 00 Overview

1913年、精工舎は国産初とされる腕時計ローレルを発売した。当時は懐中時計が主流で、腕時計は世界でもまだ黎明期にあった。服部金太郎は腕時計の時代が来ると見据え、試作と研究を重ねていた。ローレルのムーブメントは直径26.65mmの12型で、懐中時計よりはるかに小さい。この小型化は当時の技術と設備には高い壁で、生産は日産30〜50個ほどにとどまったと伝わる。文字盤には自製の琺瑯を用い、白地に黒のアラビア数字を配した。国産技術が腕時計という新しい領域へ踏み込んだ節目であり、日本の時計産業が自立へ向かう起点となった。

§ 01 Background

服部金太郎は1881年に時計の修繕と販売から身を起こし、1892年に精工舎を設けて掛時計の製造を始めた。ほどなく懐中時計づくりにも乗り出し、1895年には懐中時計タイムキーパーを送り出した。こうして部品の国産化を一つずつ進め、1910年にはムーブメントの要であるひげぜんまいを自前でまかなえるようになる。懐中時計で積んだ技術が、次の挑戦を支える土台となった。

一方、当時の時計の主役はあくまで懐中時計だった。腕時計は世界でもまだ黎明期で、飛行家や軍人の間で実用が芽生え始めた段階にすぎない。日本では女性の装身具という見方も根強かった。輸入されるスイス製が市場の多くを占め、国産の腕時計はまだ存在しない。そうした中で服部金太郎は、やがて腕時計の時代が来ると判断する。懐中時計の機構を腕に着く小さなケースへ収めるには、より細かな加工と精密な設計が要る。この見通しのもとで、精工舎は腕時計の試作と研究を続けていた。

§ 02 The Event

1913年、精工舎は腕時計ローレルを発売した。これは精工舎にとっても初の腕時計である。心臓部のムーブメントは直径26.65mmの12型で、懐中時計のそれより一回り以上小さい。石数は7石、リューズで巻く手巻き式である。当時の技術と機械設備にとって、この小型の機械を量産するのは容易ではなかった。生産は長らく日産30〜50個ほどが限界で、取り扱う販売店も選ばれたと伝わる。ほぼ同じ機械を用いた懐中時計も併せて作られた。

意匠にも国産技術が表れている。文字盤には自製の琺瑯を用い、白地に黒のアラビア数字を配した。12時の数字だけを赤で刷った個体もあり、当時の流行を映したものとみられる。秒針は6時位置に独立して置かれ、そのサークルは凹面に仕上げられて立体感を見せる。ケースには銀が使われた。懐中時計と機構を共有する設計で、蓄えた技術を腕時計へ移す堅実な作りだった。

ムーブメントはスイス製を母体にしたと見られ、完全な独自設計ではない。それでも12型という小型機を量産すること自体が、高い技術の壁を越える挑戦だった。発売後、スイス時計の輸入筋もローレルに注目したという。ある外国人技術者は、真鍮の地金が柔らかいため保持性能は2年で尽きると言い切ったとも伝えられる。そうした評価を受けつつも国産時計の評判は徐々に広まり、販売店に掛時計を卸す際に懐中時計や腕時計を添えて売る条件販売も後押しとなって、ローレルは少しずつ市場へ広がっていった。

§ 03 Significance

ローレルの意義は、まず技術の蓄積にある。12型という小型ムーブメントの製造に挑んだことで、微小な部品を削り出す加工や、それを担う工作機械づくりの技術が前へ進んだ。懐中時計より小さな部品を精度よく仕立てる経験は、設計と生産の両面で後の腕時計づくりの基礎となった。

その影響は精工舎の内にとどまらない。国産でも腕時計が作れると示したことは、後発の日本の時計業界を勢いづけた。各社が技を競い合う中で、業界全体の水準が引き上げられていく。こうした積み重ねが、やがて日本の時計産業を世界の先頭へ押し上げる遠い要因の一つとなった。2014年には日本機械学会が、その先見性と挑戦的な目標設定を評価し、ローレルを機械遺産に認定した。セイコーは今も、腕時計づくりの原点をこの1913年の一作に置いている。

日本の通史で見れば、ローレルは服部時計店と精工舎が培った技術が腕時計に結実した最初の点にあたる。ここで得た小型化と量産の知見は、1960年のグランドセイコー、1969年のクオーツアストロンへと続く国産技術の系譜の出発点となった。装身具でも輸入品でもない自前の腕時計という選択が、本史がたどる日本の時計史の始まりに置かれている。

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