パテック フィリップ創業
装飾ケースの仲介業から始まった工房が、技術と装飾を結びつけ、ジュネーブの高級路線を代表するメゾンの礎を築いた。
概要
Overview1839年5月1日、ポーランドからの亡命者アントワーヌ・ノルベール・ド・パテックと、時計師フランソワ・チャペックがジュネーブで工房を構えた。社名はパテック・チャペック商会。高品質な懐中時計を手がける小さな会社だった。1844年、パテックはパリでフランス人時計師アドリアン・フィリップと出会う。フィリップは鍵を使わずリューズで巻き上げと時刻合わせを行う機構を考案していた。チャペックの離脱を経て、1851年に社名はパテック・フィリップ商会となる。これが現在まで続く同社の直接の起点である。創業期から装飾と技術の双方に重きを置いた姿勢が、後の高級路線を方向づけた。
背景
Background19世紀前半のジュネーブは、すでに時計製造の一大中心地だった。ジュラ山脈の谷々で部品を分業して作り、組み立てる体制が機能し、腕の立つ彫金師やエナメル師、金細工師が街に集まっていた。時計は実用品であると同時に、装飾を凝らした贅沢品でもあった。
アントワーヌ・ノルベール・ド・パテックは、この街に流れ着いた一人である。1812年にポーランドの貴族の家に生まれ、十代で軍に入った。1830年からの十一月蜂起ではロシア帝国の支配に抗して戦い、二度負傷した。武功によりヴィルトゥティ・ミリタリ勲章を受けている。蜂起が鎮圧されると、多くの将兵と同じく国を離れ、フランスを経てスイスへ移った。
亡命後のパテックはいくつもの仕事を試したのち、時計に行き着いた。もっとも、当初は自ら時計を作る職人ではなかった。彼は質の良いムーブメントを買い付け、街の職人に装飾を施したケースを作らせ、仕上げた時計を売る仲介業から始めている。装飾の美しさで付加価値をつける商いである。ともに蜂起を戦った亡命者で、時計師でもあったフランソワ・チャペックとの出会いが、製造へ踏み出す転機となった。
出来事
The Event1839年5月1日、パテックはチャペックと組み、ジュネーブで「パテック・チャペック商会」を設立した。工房はローヌ川右岸、ケ・デ・ベルグ29番地に置かれた。セールスと装飾の感覚に長けたパテックと、時計製造を担うチャペックという役割分担で、高品質な懐中時計を手がけた。顧客は貴族や富裕層が中心だった。
転機は1844年に訪れる。パテックはパリの産業博覧会で、フランス人時計師ジャン・アドリアン・フィリップと出会った。フィリップは、それまで必要だった鍵を使わず、リューズだけで巻き上げと時刻合わせを行う機構を1842年に考案していた。鍵を失う煩わしさから使い手を解放するこの仕組みは、博覧会で銅メダルを得ている。パテックはその価値を見抜き、フィリップをジュネーブへ招いた。
ほどなく会社の体制が動く。1845年、二人のあいだに方針の隔たりが生じたとされ、チャペックがパートナーシップを離れた。社名は「パテック商会」へ改められる。チャペックはこののち独立し、自らの名を冠した会社を別に構えている。入れ替わるようにフィリップが会社へ加わり、その巻き上げ機構が製品に生かされていく。そして1851年、フィリップが正式な共同経営者となり、社名は「パテック・フィリップ商会」となった。二人の名を冠したこの社名が、現在まで続く同社の直接の起点である。
意義
Significance創業の意味は、装飾と技術の双方を核に据えた姿勢にある。パテックは仲介業の時代から装飾の美しさで付加価値をつけ、そこへフィリップの巻き上げ機構という技術革新が加わった。これにより会社は、早くから高品質・高価格の路線を歩み始める。
この姿勢は、その後の複雑機構への傾倒につながっていく。永久カレンダーやミニッツリピーター、クロノグラフといった手の込んだ機構を得意とし、少量を時間をかけて仕上げる生産が、メゾンの性格として定着した。複雑な注文品は各国の王侯や著名人に渡った。創業まもない1851年には、ロンドンの万国博覧会で英国のヴィクトリア女王が同社の時計を求めたと伝わる。
経営面では、世界的な不況のさなかの1932年、株式を手放すことになった同社をスターン家が買い取った。同家はもともと文字盤を手がけ、同社へ供給する関係にあったと伝わる。以後はスターン家が代々受け継ぎ、現在は四世代目が指揮を執る。ジュネーブで独立した家族経営を続けるメゾンは少なく、その立ち位置は同社の個性となった。スイス時計産業の通史のなかで、この創業はジュネーブの高級路線を体現する一つの起点に位置づけられる。