パテック スーパーコンプリケーション
24の複雑機構を1台に収めたこの懐中時計は、計算機のない時代における機械式時計の一つの到達点を示す。
概要
Overview1925年、ニューヨークの銀行家ヘンリー・グレーブス・ジュニアはパテック フィリップに、できる限り多くの機構を備えた懐中時計を注文した。設計に3年、製作に5年を費やし、1933年1月19日に完成品が引き渡された。表裏二つの文字盤に24の複雑機構を収めたこの時計は、計算機のない時代に手作業だけで組み上げられ、ウェストミンスター式の時報や永久カレンダー、ニューヨークの星空を映す天測図などを備えた。1989年にパテック自身のキャリバー89が現れるまで、世界で最も多機能の時計とされた。腕時計が普及しつつあった時期に、懐中時計という形式で複雑機構がここまで集約された記録として、本史の節目に置かれる。
背景
Background19世紀後半から20世紀初頭にかけて、時計の複雑機構は懐中時計の上で発展を続けていた。永久カレンダー、ミニッツリピーター、クロノグラフといった機構を1台に組み合わせたグランドコンプリケーションは、職人の技量を測る指標であり、注文主の財力と趣味を映す品でもあった。パテック フィリップは19世紀末までにこの種の懐中時計を手がけ、複雑機構の名門としての地位を築いていた。
この時期、機構の数を競う場の中心にいたのが、富裕なアメリカの収集家たちだった。自動車製造で財をなしたジェームズ・ウォード・パッカードと、銀行家ヘンリー・グレーブス・ジュニアは、いずれもパテックに特注の複雑時計を発注した名として知られる。グレーブスがパッカードを上回る1台を求めて注文したと長く語られてきたが、二人が実際に面識を持ったかは定かでなく、この競争の物語は後年に脚色されたとする見方もある。
もっとも、機構の多さそのものが価値とされ、最も複雑な1台を所有することに意味が見いだされた時代であったことは確かである。グレーブスの求めは、その風潮の中から生まれた。
出来事
The Event1925年、グレーブスはパテック フィリップに、可能な限り多くの機構を備えた懐中時計の製作を依頼した。設計の検討に約3年、部品の製作と組み立てに約5年を要した。コンピュータによる設計支援が存在しない時代であり、天文・数学・精密機械の各分野にわたる計算と試行が、すべて人の手と頭で進められた。製作にはヴァレ・ド・ジューのヴィクトラン・ピゲらの専門職人も加わったと伝わる。
完成した時計は18金のケースに収められ、表裏に二つの文字盤を備えていた。一方の面が時刻表示を、もう一方が天文表示を受け持つ。搭載された複雑機構は24を数える。ウェストミンスター式のチャイムを鳴らすグランドソヌリとプティソヌリ、ミニッツリピーター、スプリットセコンドのクロノグラフ、2100年まで対応する永久カレンダー、ムーンフェイズ、均時差の表示、平均時と恒星時、中央アラームなどが1台に同居した。動力用と打音用のぜんまいには、それぞれにパワーリザーブ表示が設けられた。
とりわけ知られるのが天測図である。一方の文字盤には、グレーブスがニューヨーク五番街の自宅から見上げる夜空が再現され、恒星の明るさや天の川までが描かれた。
部品の総数はおよそ920、うちねじが430、歯車が110に及んだとされる。直径は74ミリに達し、ケースだけで500グラムを超える大ぶりな懐中時計だった。1933年1月19日、グレーブスは代金6万スイスフラン、当時の約1万5千ドルを支払い、この時計を受け取った。
意義
Significanceスーパーコンプリケーションの意義は、複雑機構の蓄積がどこまで1台に集約できるかを、計算機のない時代に示した点にある。24という機構の数は、1989年にパテック自身が創業150周年を記念してキャリバー89を発表するまで、世界で最も多いものとして残った。56年にわたる記録である。計算機の助けを借りずに作られた時計としては、今日でも最も複雑な部類に数えられる。
この時計は、ミニッツリピーターや永久カレンダー、クロノグラフといった複雑機構が、19世紀以来それぞれに磨かれてきた系譜の合流点でもあった。単独でも難度の高い機構を、互いに干渉させずに同居させる設計は、複雑機構の歴史が積み上げてきた知見の上に成り立つ。こうした多機能を1台に束ねる課題は、後の腕時計の複雑機構へと引き継がれていく。
皮肉なのは、これが懐中時計として作られた点である。完成した1933年には、腕時計がすでに男性の標準装備となりつつあった。最も多機能の懐中時計が、その形式の時代が終わりかけた頃に現れたことになる。以後、複雑機構の主戦場は徐々に腕時計へと移っていく。
後年、この1台は競売の場でも話題となった。1999年と2014年にいずれも当時の最高額で落札され、機構の密度と来歴が今日まで関心を集め続けている。