パテック 5711 製造終了
最も売れる一本を需要の頂点で自ら絶版にする——2021年のパテックの決断は、希少性が戦略となった時代を映した。
概要
Overview2021年初頭、パテック フィリップは鋼製ノーチラスの定番である型番5711の製造終了を公表した。社長ティエリー・スターンは、一つの型番にブランドの印象が集約される事態を避けるためと説明した。15年続いた最も入手困難なモデルの終了は、二次市場の価格をいっそう押し上げた。別れには段階があり、緑文字盤の限定版に続き、ティファニーとの提携170周年を記念する水色文字盤の170本限定が掉尾を飾った。その第一号は慈善オークションで約650万ドルに達した。鋼製スポーツウォッチが地位の記号となり投機の対象とされた時代を、この廃番は象徴する。
背景
Backgroundパテック フィリップのノーチラスは、1976年にジェラルド・ジェンタが手がけた鋼製の高級スポーツウォッチに始まる。その現行世代が、2006年に登場した型番5711であった。40mmの鋼製ケースに一体型ブレスレットと横筋の文字盤を備え、青文字盤のモデルは時刻と日付だけの簡潔な構成だった。
2010年代を通じて、この5711はパテックで最も入手しにくい一本になっていく。正規店の納入待ちは数年に及び、店頭で定価通りに買える客はごく一部にとどまった。定価約3万スイスフランに対し、二次市場の取引価格は10万スイスフランを超えたとされ、実勢を決めるのは灰色市場の側になっていた。
複雑機構を看板とするメゾンにとって、これは扱いにくい事態でもあった。永久カレンダーやミニッツリピーターを擁する品揃えの中で、一本の鋼製スポーツウォッチがブランドの顔として突出していく。一本の型番をどう扱うかが、メゾンの自己像にかかわる問題になりつつあった。
出来事
The Event2021年初頭、ノーチラス5711の製造終了が伝えられた。最初は正規販売店からの情報として広まり、やがてティエリー・スターンがスイスの新聞のインタビューで方針を認めた。15年続いた看板モデルの終了は、業界に驚きをもって受け止められた。
スターンが挙げた理由は、ブランド像の均衡だった。一つの型番がコレクションの半分を占め、パテックの印象を支配する事態を望まない、と彼は語った。投機については、自分の力では止められないとも述べている。決定が知られた後、灰色市場の価格はさらに上がった。納入待ちの一部の客は、結局手に入れられないことになった。
ただし、別れは段階的に演出された。2021年4月、オリーブグリーンの文字盤をまとった5711/1A-014が発表され、最後の鋼製5711の有力候補と目された。ところが同年12月、宝飾商ティファニーとの提携170周年を記念する5711/1A-018が現れる。淡い水色の文字盤に両社名を併記した170本限定で、これが鋼製5711の掉尾を飾った。
この第一号は、12月11日にフィリップスのオークションへ出され、収益はすべて自然保護団体に寄付された。落札総額は約650万ドルに達し、この記念モデルの定価約5万ドルの100倍を超えた。後継は2022年10月の5811/1Gで、素材を鋼からホワイトゴールドへ移し、ケースを二分割構造に改めた。鋼製ノーチラスの時代を閉じる選択だった。
意義
Significance5711の製造終了は、市場という観点で時代を画す出来事だった。作り手が、最も売れる製品を需要の頂点で自ら手放したのである。希少性が偶然ではなく、ブランドの選び取る戦略でありうることを、この一件は明瞭に示した。需要に増産で応えるのではなく看板を退かせるという判断は、後年の各社の限定戦略を読み解く参照点になっている。
本来は控えめな実用時計だった一本は、著名なスポーツ選手や音楽家にも好まれ、時計愛好家の外へ広く知られる地位の記号になっていた。富の象徴とも投機の対象とも語られる時計が、廃番の宣言でいっそう強く求められた。希少さを告げること自体が、需要をあおる装置として働いたのである。
5711が退場した2021年は、二次市場の高騰がなお続く局面にあった。ロレックスの一部スポーツモデルなどと並び、入手難そのものが人気を呼ぶ鋼製スポーツウォッチの代表でもあった。だが過熱は永続せず、2022年以降には調整局面が訪れる。振り返れば5711の終了は、一本の鋼製時計が金融商品のように扱われた時代の、象徴的な区切りとして残った。スイス時計産業が築いた価値の体系が、ブランドと希少性と物語によってどこまで増幅されうるかを、この出来事は映し出している。