コロナ禍と二次市場の急騰
巣ごもりの資金と入手難が重なった2020年、機械式時計を「資産」として語る空気が一気に強まった。
概要
Overview2020年、新型コロナの世界的な流行が時計の二次市場を急騰させた。店舗の閉鎖と生産の停滞で新品の供給が細る一方、外出や旅行を断たれた人々の手元には使われない資金が残った。需要は入手難で知られた一部のステンレススポーツモデルに集中し、二次市場では定価の数倍で取引される個体が現れる。オンラインの取引プラットフォームが価格を可視化し、転売を容易にしたことも過熱を後押しした。時計を資産や投機の対象として語る言説がこの時期に広まり、相場は2022年初頭まで上昇を続けた。コロナ禍は、腕時計と金融の距離を縮めた転換点である。
背景
Background2020年以前から、一部のステンレススポーツモデルは正規店で買えない時計だった。正規価格での割り当ては絞られ、待ちリストは長く、欲しければ二次市場で割り増しを払う構図がすでに定着していた。この入手難の文化が、後の急騰の燃料となる。
市場の足場も整っていた。Chrono24をはじめとするオンラインのマーケットプレイスが世界中の在庫と相場を集約していた。2020年初頭の同社には3,000を超える業者から50万点以上の時計が並び、月に900万規模の利用者を集めていた。買い手は自宅から型番ごとの実勢価格を確認し、売り手は手持ちの一本を即座に出品できた。取引データを指数化して値動きを追うサービスも現れ、時計の価格は株価のように日々参照できる数字に近づいていた。
金融環境も追い風だった。長く続いた低金利のもとで、利回りを求める資金は行き場を探していた。現物資産としての時計に投資的なまなざしを向ける層は、コロナ禍の前から静かに増えていた。
出来事
The Event2020年春、感染拡大を抑える都市封鎖が世界に広がった。ブランドは工場の操業を一時止め、正規店は扉を閉じ、見本市のBaselworldとWatches & Wondersは中止された。スイス時計協会の集計では、2020年の輸出額は前年の217億スイスフランから170億フランへ、21.8%減少した。輸出本数の落ち込みはさらに大きく、約33%減の1,380万本にとどまる。第2四半期は前年同期比でおよそ6割減と、供給は記録的に細った。
需要側の事情は逆を向いていた。外出も旅行も外食も制限された人々の手元には、使われずに残る資金があった。国によっては給付金が配られ、株式や暗号資産の高騰も資産効果を生んだ。行き場を失った資金の一部が、自宅から注文できる時計へ流れ込む。需要は入手難で知られたモデルに集中し、ロレックスのスポーツライン、パテック フィリップのノーチラス5711、オーデマ ピゲのロイヤルオークなどの相場が押し上げられた。
値動きは定価との乖離となって表れた。サブマリーナは2020年末の時点で定価をおよそ8割上回る水準で取引され、ノーチラス5711は相場の山では定価の3倍前後、デイトナの一部は2倍近くに達したとされる。相場を追う指数も大きく上昇し、過熱は2022年初頭に頂点を迎える。その象徴が、2021年12月に発表されたティファニー仕様の5711である。170本限定の1本が慈善目的の競売にかけられ、約650万ドルで落札された。定価5万ドル台の時計が桁違いの値をつけた一件は、この時期の熱狂を端的に映していた。
意義
Significanceコロナ禍の急騰は、二次市場を市場構造の中心に押し上げた。それまで補助的な存在だった中古流通は、定価を大きく上回る取引が日常化する場へと膨らみ、その水準はブランドの値付けにも影響を及ぼし始めた。
言説の面では、時計を金融資産として語る見方がこの時期に定着した。コンサルティング各社は中古高級時計を一つの資産クラスとして分析し、値上がり益を期待して売買する参加者が市場に流れ込んだ。中古高級時計の取引規模は2021年に約220億ドルとされ、市場全体のおよそ3分の1を占めるまでになった。オンラインでの中古購入に抵抗のない若い世代が、この拡大を担い手として支えた。もっとも、量産されるモデルが「希少品」として扱われるねじれは、相場が需給だけで膨らんでいたことの裏返しでもあった。暗号資産の調整や金利の上昇が重なると、2022年以降に相場は反転していく。
この過熱は制度面にも痕跡を残した。真贋保証と流通の正常化を狙うメーカー公認中古の仕組みが各社で整えられ、価格を可視化するオンラインのプラットフォームは、相場が下げに転じた後も取引の基盤として残った。腕時計が嗜好品であると同時に値のつく資産でもあるという二面性を、コロナ禍は誰の目にも見える形で刻みつけた。