ホイヤー創業
懐中時計の一職人として出発したホイヤーは、19世紀後半に広がるスポーツ計時の需要に応え、クロノグラフを得意とするメゾンへと育っていく。
概要
Overview1860年、20歳のエドゥアール・ホイヤーがスイス・ジュラ地方のサンティミエに時計工房を開いた。靴職人の家に生まれた青年は、銀側の懐中時計づくりから出発し、まもなく技術的な工夫で頭角を現す。1869年のリューズ巻き上げ機構、1882年の自社初クロノグラフ、1887年の振動ピニオンといった特許が、計時を得意とする工房という性格を形づくった。19世紀後半に広がるスポーツ計測の需要を背景に、ホイヤーはクロノグラフの作り手として市場に居場所を築く。家族経営のもとでこの性格は受け継がれ、後のカレラやキャリバー11、モナコへと連なっていく。
背景
Background19世紀半ばのスイスでは、時計づくりがジュラ山脈沿いの谷あいに根を張っていた。ジュネーブからヌーシャテル、ベルンのジュラ地方へと連なる一帯では、農閑期の家内工業として時計部品の製造が広まる。職人が部品を持ち寄って組み上げるエタブリサージュの分業が、この地の産業の骨格をなしていた。サンティミエもまた、こうした時計の谷の一つだった。
この時代、時計に求められる価値も変わりつつあった。鉄道網が広がり、社会が時刻を共有しはじめると、正確に時を刻むことそのものが品質を分ける指標になった。19世紀後半には、競馬や陸上競技をはじめとするスポーツが各地で組織化されていく。勝敗を分ける短い時間を測るストップウォッチやクロノグラフへの需要が、静かに生まれつつあった。
懐中時計の工房が数多く生まれては消えるなか、修業を積んだ若い職人が独立して自らの名を掲げる例も珍しくない。後にクロノグラフで名を成すメゾンも、こうした時計の谷の土壌から出発することになる。
出来事
The Event1860年、エドゥアール・ホイヤーはサンティミエに時計工房を開いた。当時20歳である。靴職人の家に生まれ、14歳から時計づくりの修業を積んだ末の独立だった。最初に手がけたのは銀側の懐中時計で、家族の農場の一隅を作業場としたと伝えられる。
小さな工房は数年のうちに拠点を移していく。1864年、ホイヤーは故郷に近いブルックへ移り、エドゥアール・ホイヤー商会の名で操業した。1867年にはベルン州のビエンヌへ移り、以後この地に1世紀以上とどまることになる。新興企業への税の優遇が、移転を後押ししたとされる。
創業まもない工房を特徴づけたのは、技術的な工夫の積み重ねだった。1869年、ホイヤーは最初の特許を取得する。鍵を使わずリューズで巻き上げる機構で、それまで別体の鍵を要した懐中時計の扱いを大きく改めた。1882年には自社初のクロノグラフの特許を得て、計時という分野へ足を踏み入れる。
1887年、ホイヤーは振動ピニオン(オシレーティングピニオン)の特許を取得した。歯のかみ合わせを切り替えることで、クロノグラフの計測を瞬時に始動・停止させる機構である。構造を簡素にしつつ精度を高めるこの工夫は、現在も多くの機械式クロノグラフに用いられている。1880年代にはスポーツ競技の拡大を背景に、競馬や陸上、水上の記録を計る懐中クロノグラフを数多く手がけるようになる。エドゥアール・ホイヤーは1892年に没するまで会社を率いた。
意義
Significance創業の意義は、計時の専門メゾンとしてホイヤーが市場に独自の場所を築いた点にある。複雑な機構で装飾性を競う系譜とは別に、この会社はクロノグラフという実用の複雑機構を軸に据えた。スポーツや計測の現場で使う道具としての時計を、商いの柱とした。
20世紀に入っても、ホイヤーの計時機器はオリンピックや各種競技で用いられた。1916年には100分の1秒を計るストップウォッチ「マイクログラフ」を、1933年にはダッシュボード用のオウタヴィアを世に出した。
家族による経営が長く続いたことも、この会社の特徴である。創業者の曾孫にあたるジャック・ホイヤーの時代には、モータースポーツとの結び付きが深まる。1963年のカレラ、そして1969年の自動巻クロノグラフ・キャリバー11とモナコによって、スポーツクロノグラフの代表的な作り手としての地位を固めた。
1985年、経営難のなかでTAGグループが株式の過半を取得し、社名はTAGホイヤーとなる。クォーツ危機を経たスイス時計産業の再編の一例であり、後にはLVMH傘下へと移った。一職人の工房から始まったこの会社は、時間を計るという主題を貫きながら、現代まで続くスイスの主要ブランドの一つとなっている。