ヒゲゼンマイの応用
振り子を懐中に持ち込めるか——その問いに渦巻ばねで答えたヒゲゼンマイの応用が、携帯時計に等時性をもたらした。
概要
Overview1675年、クリスティアーン・ホイヘンスはテンプ輪に渦巻状のヒゲゼンマイを組み合わせ、懐中時計に応用した。それまでの携帯時計はテンプの往復を整える仕組みを欠き、駆動力の変動に左右されて1日に数時間も狂うことがあった。ヒゲゼンマイはテンプの往復にばねの復元力を加え、振動の周期を安定させる。これにより精度は一気に高まり、分針が初めて実用的な意味を持った。ただし同じ着想はロバート・フックが先に得ていたとも伝わり、発明の帰属は今も論争が続く。その論争はともかく、この応用はテンプ機構の基礎を定め、以後の精度向上の出発点となった。
背景
Background17世紀半ばの携帯時計は、置き時計に比べてはるかに不正確だった。動力はゼンマイで、テンプ輪が往復運動を刻んでいたが、その往復には固有の周期を保つ仕組みがなかった。ゼンマイの巻き具合や脱進機の摩擦しだいでテンプの振れ幅は変わり、振れ幅が変われば一往復の時間も変わる。ゼンマイがほどけるにつれ、時計は遅れていった。1日に数時間ずれることも珍しくなく、携帯時計は時刻を知る道具というより、富や教養の象徴に近かった。当時の文字盤の多くは時の表示にとどまり、分を示す目盛りを欠いていた。
一方、置き時計の世界では精度が前進していた。1657年、ホイヘンスは振り子時計を実用化し、振り子の等時性によって日差を分単位にまで縮めていた。だが振り子は重力に頼る仕組みで、揺れる船上や持ち歩く懐中では使えない。携帯できる調速機構には、振り子に代わる別の等時性の源が必要だった。求められていたのは、テンプの往復そのものに固有の周期を与える仕組みである。
出来事
The Event1675年初頭、ホイヘンスはテンプ輪に細い渦巻状のばねを取り付け、その一端をテンプの軸に、もう一端を地板側に固定した。同年2月、彼はこの仕組みを学術誌Journal des sçavansへの手紙で公表し、図とともに原理を示した。ばねはテンプが回るたびに縮み、復元力でテンプを押し戻す。テンプとばねの組は固有の振動周期を持ち、駆動力が多少変動しても周期は大きく崩れない。振り子が重力で得ていた等時性を、ばねの弾性によって携帯時計へ持ち込んだのである。最初のヒゲゼンマイは鉄か銅でつくられ、巻数は5、6回ほどだったと伝わる。
ただし、この応用の発明者をめぐっては論争がある。英国のロバート・フックは、自分は1650年代末にすでに同じ着想を得ていたと主張した。フックはばねの弾性に関する法則の研究で知られ、早くから時計への応用を考えていたという。ホイヘンスの公表に憤ったフックは、自らの先行を示すため時計師トーマス・トンピオンに時計を作らせ、「R. Hooke invenit an. 1658. T. Tompion fecit 1675」と刻ませた。考案はフック、製作はトンピオンという主張である。
もっとも、フックの主張を裏づけるはずの王立協会の議事録は当時失われており、証拠は長く欠けていた。状況が動いたのは2006年で、フック自身の手による議事メモ(フック・フォリオ)が見つかり、論争が改めて注目された。一方、ホイヘンス側でも、時計を実際に組み上げた職人イサーク・トゥレが自らの寄与を主張している。誰が最初に着想し、誰が最初に動く時計へ仕立てたのか。その線引きは今も定まっていない。確実に言えるのは、渦巻ばねを懐中時計の調速機構として実現し、世に問うたのは1675年のホイヘンスだったという点である。
意義
Significanceヒゲゼンマイがもたらしたのは、携帯時計の精度の飛躍である。それまで1日に数時間も狂った懐中時計が、導入後はおよそ10分前後にまで改善したと伝わる。誤差が分単位に収まったことで、文字盤に分針を添える意味が初めて生まれた。時針だけで足りた時代から、分を読む時代への転換である。この変化は、置き時計に振り子がもたらした前進に匹敵すると評される。
技術の面で重要なのは、テンプと渦巻ばねの組が、以後の機械式時計の調速機構の基本形として定着した点である。これによって懐中時計はようやく実用の計時器になった。現代の機械式腕時計も、素材や形状こそ高度化したが、テンプとヒゲゼンマイが固有周期を刻むという原理は1675年と変わらない。
ただし初期のヒゲゼンマイは平らに巻かれただけで、伸縮が偏り、姿勢によって精度が乱れる弱点を残していた。この課題に答えたのが、1795年ごろにアブラアン=ルイ・ブレゲが考案したとされるブレゲひげである。外側の巻きを持ち上げて中心へ湾曲させ、ばねが同心円状に伸縮するようにして等時性を高めた。ヒゲゼンマイは生まれてのち、精度をめぐる長い改良の系譜の起点となった。本史が精度と認定の流れをたどるとき、その出発点はこの渦巻ばねに置かれる。