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腕時計史 · MILESTONE — 第7章 現代
2019

グランドマスター・チャイム落札(史上最高)

筋ジストロフィー研究の慈善オークションという場が、一点物の複雑時計に競売史上の最高額をもたらした。

§ 00 Overview

2019年11月9日、ジュネーブで開かれた慈善オークション、オンリーウォッチで、パテック フィリップのグランドマスター・チャイム6300Aが約3,100万スイスフランで落札された。腕時計・懐中時計を通じ、オークションで取引された時計として当時の史上最高額である。出品されたのはステンレススチール製のただ一本で、20の複雑機構を備える同社最複雑の腕時計だった。事前推定額は250万から300万スイスフランだったが、競りはその10倍超に達した。この催しは2年に一度、筋ジストロフィー研究のために開かれる。落札額がそのまま大義に向かった点も、この記録を特異なものにしている。

§ 01 Background

オンリーウォッチは、2005年にリュック・ペタヴィノが創設した2年ごとの慈善オークションである。彼の息子が罹患したデュシェンヌ型筋ジストロフィーの研究資金を募るために始まった。ジュネーブを舞台に各時計ブランドが一点物を寄贈し、収益のほぼ全額が研究に充てられる。回を重ねるごとに参加ブランドと収益は増え、2010年代には時計業界の慈善活動を象徴する催しへと育っていた。

この時期、時計の競売市場そのものが熱を帯びていた。希少な歴史的個体や来歴のある一本が高額で取引されていた。2017年にはポール・ニューマン旧蔵のロレックス デイトナが約1,780万ドルで落札され、腕時計として当時最高額を記録した。落札額が話題を呼び、その話題がさらに需要を押し上げる循環が市場を覆っていた。

出品されたグランドマスター・チャイムは、2014年に同社の175周年を記念して発表された、当時最も複雑な腕時計である。2016年からは通常コレクションにも加わったが、その素材はつねに金だった。希少な複雑機構をあえてステンレススチールで仕立てる例はパテックではきわめて珍しく、収集家の間では貴金属版以上に渇望される対象となっていた。

§ 02 The Event

2019年11月9日、ジュネーブのフォーシーズンズ・ホテルで第8回オンリーウォッチが開かれ、クリスティーズが進行役を務めた。50点ほどの一点物が出品され、その目玉がロット28、グランドマスター・チャイムのリファレンス6300A-010だった。

この一本は、オンリーウォッチのためだけに作られたグランドマスター・チャイム唯一のステンレススチール製である。反転するケースの両面にダイヤルを備え、片面で時刻と鳴り物、もう片面で永久カレンダーを表示する。グランドソヌリ、プティソヌリ、ミニッツリピーター、瞬時切替の永久カレンダー、第2時間帯など、20の複雑機構を一本に収める。時刻を打つアラームと日付を鳴らす機構という、発表時に特許を得た二つの新機軸も含んでいた。

競りは緊張をはらんだ。事前の推定額は250万から300万スイスフランにすぎなかったが、入札が始まると値は急速に吊り上がった。槌が下りたとき、落札額は3,100万スイスフランに達していた。ドル換算でもほぼ同額にあたる。慈善オークションのため買い手の手数料は上乗せされず、落札額がそのまま寄付に回る仕組みだった。

これは2年前のポール・ニューマンのデイトナを大きく超えた。腕時計・懐中時計を問わず、オークションで取引された時計として当時の最高額となった。買い手の名は明かされていない。第8回だけで3,859万スイスフランあまりが集まり、それまでの全回の合計に迫る額となった。

§ 03 Significance

3,100万スイスフランという数字は、時計の値が素材や製造原価から遠く離れうることを、市場に強く印象づけた。鋼で仕立てられた一本が、金やプラチナのどの個体をも超えたのである。値を決めたのは素材でも機能の数でもなく、二つとないという一回性と、それが置かれた場の力だった。

この落札は、2010年代後半に過熱した収集市場の一つの頂点に位置づけられる。人気モデルの入手難とプレミア化が進むなか、オークションは値を決め、物語を作る舞台となっていた。一点物・最複雑・慈善という三つの条件が重なったこの一本は、その舞台の象徴だった。3,100万という数字は以後、オークションでの最高額を語るときの基準点として参照され続けた。

同時に、この出来事は値の意味を問い直す契機でもあった。慈善の場では、買い手は通常の相場を超えて値を投じうる。落札額が難病研究へ向かう以上、3,100万という額を市場価値の純粋な指標と見ることはできない。複雑機構の頂点を競うパテックの系譜が、ここでは技術の誇示にとどまらず、社会的な大義と結びついた。慈善と威信と工芸が交わったこの一本は、現代の時計の価値がどこから生まれるのかを示す例となった。

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