ノーチラス/インヂュニアSL(ジェンタのラグスポ)
ロイヤルオークが開いた路線は、同じ設計者による1976年の二作で、一過性の挑戦から一つの範型へと変わった。
概要
Overview1976年、パテック フィリップはノーチラス(Ref.3700/1A)を、IWCはインヂュニアSL(Ref.1832)を発表した。いずれもロイヤルオークと同じジェラルド・ジェンタの設計で、ケースと一体化したブレスレットを核とする。ロイヤルオークが1972年に開いたステンレス製高級スポーツの路線は、この時点ではまだ一社の挑戦にとどまっていた。複雑時計を手がけるパテックと、工具時計の系譜を持つIWCという出自の異なる二社が同じ路線に加わり、その試みは業界が共有する範型へと変わった。両作が定めた一体ブレスの意匠は、後年まで続く高級スポーツの系譜の基点となった。
背景
Background1972年のロイヤルオークは、ステンレス鋼の腕時計を金無垢のドレスウォッチ以上の価格で売るという発想を世に問うた。だがそれはオーデマ ピゲ一社の賭けにとどまり、一つの領域として成立するかは定まっていなかった。
背景には、クォーツの普及による機械式時計の地位低下がある。精度と低価格で電子式が市場を侵食するなか、伝統的なメゾンは別の価値を示す必要に迫られていた。金無垢に頼らず、鋼という日用の素材に高い設計と仕上げを与えて付加価値を作る——ロイヤルオークが示したのはその一つの解だった。
パテック フィリップは複雑時計と薄型ドレスウォッチで知られ、鋼製を主力に据えた前例はほとんどなかった。IWCのインヂュニアは、1955年に登場した耐磁の実用時計で、技術者向けの工具という性格が強かった。いずれも自社のそれまでの作風からは遠い領域である。二社が頼ったのは、ロイヤルオークを描いた同じ設計者、フリーランスのジェラルド・ジェンタである。
出来事
The Event1976年のバーゼルの時計見本市で、パテック フィリップはノーチラス(Ref.3700/1A)を発表した。ジェンタは遠洋客船の舷窓から着想を得たと語っており、角を丸めた八角形のベゼルと、ケース側面に張り出すちょうつがい状の耳がその面影を伝える。40mmの直径(耳を含めて42mm)は当時として大きく、ジャンボの通称で呼ばれた。厚みは8mmに満たず、ジャガー・ルクルトの920系をもとにした自動巻キャリバー28-255を収める。H字のコマを持つブレスレットはケースと一体に成形され、後付けのバンドを受け付けない。名はジュール・ヴェルヌの小説に登場する潜水艇に由来する。鋼製でありながら3,100ドルという価格が付き、広告は世界で最も高価な時計の一つが鋼でできていると謳った。
同じ年、IWCもジェンタの設計によるインヂュニアSL(Ref.1832)を送り出した。SLはスチールラインを指し、ポロクラブやゴルフクラブを含む鋼製スポーツの一群の中心に据えられた。クッション形のケースに、五つの窪みでねじ留めされる丸いベゼルを組み合わせ、文字盤には方眼状の模様を刻む。ペラトン式の自動巻キャリバー8541を積み、軟鉄製の内ケースで磁気から機構を守る点に、工具時計としての出自が残る。H字コマの一体ブレスレットを備え、これもジャンボと呼ばれた。
二作はいずれも、ケースと一体化したブレスレット、面を強調した大ぶりのベゼル、地模様のある文字盤、艶を抑えたヘアライン仕上げを共有する。舷窓と工具という異なる主題を持ちながら、同じ設計者の手が両者を貫いていた。
意義
Significance二作の意義は、意匠の文法を確立した点にある。ラグにバンドを通す従来の構造と違い、ケースとブレスレットを切れ目なく連続させ、面構成と地模様で立体感を与える——この一体ブレスの組み立て方が、以後の高級スポーツの視覚的な語彙となった。この構成は後に多くのブランドが追随し、独立した領域を形づくっていく。
意匠の方向も転換させた。高級時計は袖口からのぞく控えめで光る装身具という通念に対し、両作は大ぶりで艶を抑えた面を前面に出し、大きさと素っ気なさを高級の表現として認めさせた。
二社が相次いで同じ路線に加わったことで、ロイヤルオークが切り開いた領域は一社の例外ではなくなり、業界が共有する範型として固まった。
商業的な明暗は分かれた。ノーチラスはパテックの主力系列へ育ち、現在まで続く。一方インヂュニアSLは工具時計を求める層には大胆すぎ、生産は数百本にとどまったと伝わる。後年に愛好家が再評価し、IWCは2023年にジェンタの意匠を下敷きにした新型で系譜を継いだ。その長い不遇と再評価は、意匠が発表時の市場の理解を先取りしていたことを物語る。ジェンタが定めた様式は、半世紀を経て二次市場の過熱や入手難の象徴となるモデル群を生んでいる。