シチズン時計 創業
市民に親しまれることを願って名づけられた『CITIZEN』を社名に掲げ、1930年、後発の作り手が国産量産へ踏み出した。
概要
Overview1930年5月、シチズン時計株式会社が設立された。母体は、貴金属商の山崎亀吉が1918年に開いた尚工舎時計研究所である。同所が1924年に完成させた国産懐中時計には『CITIZEN』の名が与えられ、それがそのまま社名となった。初代社長には、スイスの時計商シュミット商会で日本側を率いた中島與三郎が就いた。当時は服部時計店(セイコー)が製造で先行し、シチズンは後発の参入だった。それでも翌1931年に最初の男性用腕時計を完成させ、国産品を選ぶ機運も追い風に生産を伸ばした。やがてセイコーに次ぐ国内第二の作り手となり、戦後の耐震・防水技術へと連なる歩みがここから始まる。
背景
Background明治末から大正にかけて、日本の携帯時計は輸入の懐中時計が主流で、スイスやアメリカ製が市場の多くを占めていた。国産化は遅れ、先頭に立っていたのは服部金太郎の服部時計店である。同店は精工舎を通じ、懐中時計から腕時計へと国産の製造を広げていた。
こうしたなか、東京で時計や貴金属を商う山崎亀吉は、海外で時計産業の隆盛に触れ、国産化を志した。彼は東京の時計商の同業組合でも要職に就き、業界の事情に通じていた。1918年、上戸塚に尚工舎時計研究所を開き、懐中時計のケース製造などから国産時計づくりに乗り出す。1924年には独自設計の国産懐中時計を完成させた。名のなかったこの一号機には、山崎と親交のあった当時の東京市長後藤新平が、市民に広く永く愛されることを願って『CITIZEN』と名づけたと伝えられる。ただし命名の経緯には諸説あり、シュミット商会が早くにこの語を商標登録していたとの記録も残る。
もっとも、尚工舎は試作と研究を主とする組織にとどまっていた。輸入品と渡り合って量産へ進むには、資本と工場を備えた会社への組み替えが避けられなかった。
出来事
The Event1930年5月、東京でシチズン時計株式会社が設立された。母体となったのは山崎亀吉の尚工舎である。山崎がこれを手放すにあたり、事業を引き受けたのが中島與三郎だった。
中島は大学卒業後にカナダへ渡って英語を学び、帰国後はスイスの時計商シュミット商会で日本側の代表を務めた。シュミット商会は、横浜に居を構えたスイス出身のロドルフ・シュミットの商会で、輸入から日本国内での製造へと軸足を移しつつあった。中島は輸入部品で時計を組み立てる事業を手がけて成果を上げ、時計の国産化に意欲を持っていた。彼は尚工舎を買収して新会社の設立に加わり、初代社長に就く。工場運営は、同じくシュミット商会で中島の信頼を得ていた鈴木良一が、工場管理人として担った。
社名には、1924年の懐中時計に冠された『CITIZEN』がそのまま用いられた。株式会社という形をとったことで、量産に向けた資本と組織が整う。尚工舎は研究所から製造企業へと姿を変え、輸入部品の組立にとどまらず、部品やその加工機械までも自前で整える国産化を志した。スイス貿易で培われた部品調達や組立の知見が、その出発点を現実に支えた。
設立の翌1931年、シチズンは最初の男性用腕時計(10-1/2F型)を完成させた。懐中時計から始まった国産化の試みが、腕時計の自社生産という形をとる。輸入品がなお幅をきかせる市場に、組立から国産製造へと踏み出した作り手が、また一つ加わった。
意義
Significanceシチズンの設立で、国産時計の供給者が一社から二社へ広がった。製造では服部時計店(セイコー)が先んじ、後発のシチズンはこれを追う立場にあった。やがて両社が、国産量産をけん引する二大メーカーとして並ぶ。一社の独走ではなく競い合う関係が、国内の時計産業に厚みを与えた。二社が技術と品質で競う構図は、のちの国産時計の前進を後押しすることになる。
量産の体制づくりは、国産品を選ぶ社会の機運にも助けられた。1931年の腕時計第一号は大きな反響を呼び、注文が生産に追いつかない。そこで淀橋の工場を拡張し、田無には新たな工場を設けて生産を広げた。特権的な高級品ではなく、広く行き渡る実用品をつくる。市民に親しまれる時計という名のとおりの姿勢が、シチズンの立ち位置を形づくった。
こうした歩みの先に、戦後の技術展開が続く。1956年には国産初とされる耐震時計パラショックが、1959年には国産初とされる完全防水時計パラウォーターが現れ、堅牢さと防水という実用価値を国産の手で押し広げた。後発の不利を製品力で埋めるこの歩みは、日本時計の通史のなかで、セイコーとともに量産と技術自立を担う二本目の柱が1930年に立ったことを示している。