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腕時計史 · MILESTONE — 第1章 起点とフォーマットの探索
1801

ブレゲ トゥールビヨンの特許

重力は時計の敵である——ブレゲはこの前提を、調速機構を回し続けて誤差を均すという逆転の発想で乗り越えようとした。

§ 00 Overview

1801年6月26日、時計師アブラアン=ルイ・ブレゲが内務大臣から特許を得たのが、調速機構トゥールビヨンである。当時は懐中時計が主役で、上着のポケットに収まり、ほぼ垂直の姿勢で長い時間を過ごす。止まった向きが続くと重力は調速部品の一方に偏り、姿勢差が歩度のばらつきとなって現れた。ブレゲは調速の中枢を回る籠に収め、向きを休みなく変えて誤差をならす道を選ぶ。作るのは難しく世に出た数は限られたが、その原理は重力と精度という難題への明快な答えであり、本史の幕開けにふさわしい。

§ 01 Background

18世紀の終わり、時計といえば懐中時計を指す時代だった。鎖でベストやポケットにつなぎ、盤面を上に向けたまま、ほぼ立った姿勢で一日の大半を過ごす。この動かない向きこそが、当時の精度をひそかに損ねていた。

テンプ、ヒゲゼンマイ、脱進機という調速の中枢は、重力のかかる向きしだいで挙動がわずかに変わる。立った姿勢が続けば力は同じ側にかかり続け、ヒゲゼンマイの伸縮の癖や重心のずれが、決まった方向の進み遅れとして溜まる。同じ個体でも置き方を変えれば歩度が動いたのは、このためである。

1747年にスイスで生まれたブレゲは、1775年にパリで工房を構え、機構の独創と精度で評価を高めていた。革命期には混乱を避けて一時故国へ退き、1795年にパリへ戻る。彼は重力の影響を、逃れられない宿命ではなく設計で手なずけられる相手と見ていたと伝わる。誤差を消すのではなく向きを回し続けて均す——その着想に達したのも、パリ復帰の前後だったとされる。

§ 02 The Event

出願は特許の半年前にさかのぼる。ブレゲは1800年12月24日、共和暦でいう9年ニヴォーズ3日に、水彩の機構図を添えた技術書類を当局へ提出していた。1801年6月26日、革命暦の9年メシドール7日にあたるこの日、内務大臣が10年間有効の特許を認める。署名したのは化学者としても知られる内務大臣ジャン=アントワーヌ・シャプタルだった。ブレゲは新機構に、フランス語で渦を指すトゥールビヨンの名を与える。1798年の恒力脱進機に続く、ブレゲにとって二度目の特許にあたる。

機構の要点はこうなる。姿勢の影響を最も受けやすいテンプ、ヒゲゼンマイ、脱進機を一つの回る籠に束ね、その籠を一定の周期で回転させる。周期は1分に一回が多い。立った姿勢で固まりがちな調速部が休みなく向きを変えるため、ある向きで出た誤差が別の向きの誤差と打ち消し合っていく。重力を退けるのではなく、その働きを均してならす考え方である。

もっとも、原理の明快さと製作の難しさは別の話だった。ごく小さな回転機構を高い精度で組み上げるのは骨が折れ、特許から商品化までに数年がかかる。最初のトゥールビヨンが市場に出たのは1805年とされ、翌1806年にはパリの国民産業博覧会で世に披露された。1809年には、ロンドンの名工ジョン・アーノルドへ捧げた一作が、その子息のもとへ渡っている。ブレゲが1823年に世を去るまでに売れた個体は、現存する記録では35本前後にとどまる。特許状の原本は、いまもパリの国立工業所有権庁に残るという。

§ 03 Significance

トゥールビヨンの意義は、まず考え方の新しさにある。一つひとつの誤差をつぶすのではなく、姿勢差という規則だった狂いを回転でならす——精度を、部品の出来栄えだけでなく誤差の御し方として捉える視点が、ここで時計学に加わった。以後この機構は、作り手の技量を映す物差しとしても扱われていく。

特許は10年で切れ、更新されなかった。原理は他の時計師にも研究され、20世紀にはアルフレート・ヘルヴィヒらが、籠を片側だけで支えるフライング・トゥールビヨンへと展開する。ただし量産の難しさと高い価格は変わらず、長らく一部の精密時計と限られた愛好家のものにとどまった。

興味深いのは、この機構が動かない懐中時計を前提に練られた点である。腕の上で向きが定まらない腕時計では、重力が一方へ偏り続けることはない。それでもトゥールビヨンは1980年代に腕時計の複雑機構として息を吹き返し、機械式の技巧を示す機構として今に受け継がれている。ブレゲの仕事はフランス時計の系譜の起点に立ち、トゥールビヨンは複雑機構の歴史でも要に数えられる。重力と精度という古い問いに回転という答えを与えたこの機構は、技術・意匠・市場をたどる本史の出発点に置かれる。

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