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腕時計史 · MILESTONE — 第0章 前史
1775

ブレゲ創業

自動巻からトゥールビヨンまで、ブレゲの発明の起点は、1775年にパリで構えた一つの工房にあった。

§ 00 Overview

1775年、スイスのヌーシャテルに生まれたアブラアン=ルイ・ブレゲは、パリのシテ島ケ・ド・ロルロージュに自らの工房を構えた。15歳でパリに出て名工のもとで修業を積み、数学も学んだ。独立を支えたのは、同年の結婚でもたらされた持参金だった。工房はまもなく宮廷とつながり、貴族層を顧客に迎える。ここを拠点に、ブレゲは自動巻やゴングばね、パラシュート耐震、そして1801年のトゥールビヨンへと続く発明を世に送り出した。後に近代時計学の父と呼ばれる人物の歩みは、この年に始まった。本史が幾度も立ち返る主人公の、最初の一歩である。

§ 01 Background

18世紀後半のパリは、宮廷と富裕層を背景に時計と精密機器の集積地だった。なかでもシテ島西部、ポンヌフに近いケ・ド・ロルロージュ一帯は、時計師や精密職人が軒を連ねる国際色豊かな街区で、当代の名工たちもこの界隈に集まっていた。

アブラアン=ルイ・ブレゲは、1747年にスイスのヌーシャテルでユグノーの家系に生まれた。少年期に父を亡くし、十代でパリへ移り住む。当地ではフェルディナン・ベルトゥーやジャン=アントワーヌ・レピーヌら当代一流の時計師のもとで修業を重ね、技術の基礎を固めた。同時に、時計づくりには数学が欠かせないと考え、コレージュ・マザランの夜学で学んでいる。

そこで彼を指導したのが、宮廷に通じるアベ・マリーだった。この縁は、後に顧客を得るうえで大きな意味をもつ。修業を終えた若き職人に残された課題は、独立であった。自らの名で工房を開くには相応の資金が要る。当時の職人社会では、妻の持参金が開業の元手に充てられることが多かった。

§ 02 The Event

1775年、ブレゲはセシル=マリー=ルイーズ・リュイリエと結婚した。裕福なブルジョワ家の娘で、その持参金が独立の元手となった。同じ年、彼はシテ島のケ・ド・ロルロージュに自らの工房を開く。住まいを兼ねた建物は、表を河岸に、裏をドフィーヌ広場に向けていた。番地は当時51番、後の改番で39番にあたる。彼はここで生涯と家業の大半を過ごした。

当時の時計は注文主ごとに誂える特注品が常で、一作の完成に年単位を要することも珍しくなかった。パリに早くから根を張ったスイス出身者の人脈も、開業当初の彼を後押しした。開業まもなく、数学を学んだ縁からアベ・マリーがブレゲを宮廷に引き合わせた。その紹介を通じて宮廷の人々が顧客となり、工房は早くから活気づく。ルイ16世やマリー・アントワネットをはじめ、王侯貴族が注文主に加わった。宮廷の信用は評判を呼び、貴族からの注文を引き寄せた。

この工房を拠点に、ブレゲは次々と機構を生み出した。1780年ごろには歩行で巻き上がる自動巻(ペルペチュエル)を手がけ、1783年にはリピーター時計の打音をベルからゴングばねへ置き換えて薄型化を実現する。衝撃から機構を守るパラシュート耐震、そして1801年に特許を得たトゥールビヨンへと発明は続いた。1810年ごろには、ナポリ王妃のための腕時計とされる一作も生まれた。これらの詳細は各記事に譲るが、いずれもこの1775年の開業を共通の起点としている。

§ 03 Significance

開業から数年でブレゲの名はパリの内外に広まった。その顧客はフランス宮廷にとどまらず、各国の王侯や名士に及ぶ。後年のナポレオンもその一人だった。これは、工房が高級時計の中心の一つに育った証でもある。

市場での存在感を支えたのは、機構だけではない。1783年ごろに整えられた、先端近くに偏心した穴をもつ細身の針は、当時主流だった重厚で装飾の多い針とは対照的だった。やがてこの形は「ブレゲ針」と呼ばれ、時計づくりの語彙に加わる。読みやすさを意図したアラビア数字も「ブレゲ数字」として広まり、ギヨシェ彫りの文字盤やフルートを刻んだケースとともに、一目でそれと分かる意匠を形づくった。これらは今日まで多くのブランドに模倣され、視覚的な識別記号として機能し続けている。

ブレゲ本人は1823年に世を去るが、工房はその後も受け継がれた。1870年には三代目が時計部門をイギリス人エドワード・ブラウンに譲り、ブラウン家が約1世紀にわたり事業を守った。その後さらに所有者を変え、1999年にスウォッチグループの傘下に入る。現存する最古級の時計ブランドの一つとして、名は今も保たれている。フランス時計の系譜(R3)をたどるうえで、ブレゲは技術と意匠の双方を貫く起点に位置する。

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