系譜と歴史
1. 鳴り物の伝統と、独立アラームへの着想
パテック フィリップにとって、音を扱う機構は特別な位置にある。1989年の懐中時計キャリバー89は、33の複雑機構の一つとして第5のゴングを打つアラームを備えていた。2014年のグランドマスター チャイムでは、ミニッツリピーターと同じ音列で設定時刻を知らせるアラームが組み込まれた。ただしこれらは、いずれもリピーターの延長線上にある仕掛けである。腕時計用の独立したアラーム機構を一から起こすのは、AL 30-660 S Cが同社初となる。
開発の出発点は、薄く、直感的に扱え、誤操作に強い腕時計という構想であった。モジュール追加ではなく一体型ムーブメントを選んだのは、厚みを抑えるためである。設計と製造の難度は上がるが、操作系を機構に統合できる利点を採った。完成までに5年を要し、アラーム機構には4件の特許が出願された。2019年、この成果はRef.5520Pアラーム トラベルタイムとして結実する。
2. 防水という壁
鳴り物時計の宿命は、響きと密閉の両立にある。ゴングの音はケースを介して外へ抜けるが、防水構造はその伝達を鈍らせがちである。歴代の鳴り物時計が防水を諦めてきたのも、この矛盾ゆえであった。AL 30-660 S Cは、音の伝達経路を作り込むことでこの壁に挑んだ。結果として、パテック フィリップにとって初の、防水ケースを備える鳴り物時計が実現する。30m防水という数値は控えめに映るが、湿潤な気候のもとでも鳴り物を楽しめる意味は小さくない。
打音そのものも、ブザー式の振動音とは性格を異にする。ハンマーが本物のゴングを叩く響きは、ミニッツリピーターに近い澄んだ音色を持つ。日用の道具でありながら、その音には同社の鳴り物の系譜が通っている。
3. FUSからSCへ
2019年のRef.5520Pが搭載したのは、574個の部品からなるAL 30-660 S C FUSである。FUSはトラベルタイム、すなわち二地域時間表示を加えた仕様を指す。対して、2026年のウォッチズ&ワンダーズで発表されたRef.5322Gは趣を変える。トラベルタイムを外し、日付表示とアラームに機能を絞った524部品のAL 30-660 S Cを採る。アラームを主役に据え直した再構成といえる。打刻の精度は一段と高められたとされ、複雑な構造を保ちながら厚さは6.6mmにとどまる。4つのリューズ管を備えた大ぶりな5520Pに対し、5322Gはカラトラバの端正な意匠へと回帰した。同系統の中でも、用途を明快にした世代である。