設計思想
Only Watchと「One」の系譜
筋ジストロフィー研究支援を目的とする隔年のチャリティオークションOnly Watchに、チューダーは2015年から一点物を出品し続けてきた。2015年のブラックベイ One、2017年の左リューズ仕様ブラックベイ ブロンズ One、2019年のブラックベイ セラミック One。いずれも「One」の名を持ち、しかも単なる特別装飾版ではなく、後の量産モデルを予告する実験機としての性格を帯びていた。実際、2019年のセラミック Oneで試されたMETAS認証ムーブメントは、2021年の量産型ブラックベイ セラミックで現実のものとなっている。Ref. 7983/001Uは、この系譜の4作目として2021年7月に公開された。
METASを纏った初のGMT
ベースとなったのは、2018年に登場したブラックベイ GMT(Ref. 79830RB)である。量産機が搭載するCal. MT5652はCOSC認定にとどまるが、本機のCal. MT5652-1Uは耐磁性能や実用精度まで検証するMETASのマスタークロノメーター認証を追加で取得した。チューダーは2021年春のブラックベイ セラミックで、オメガ以外では初めてMETAS認証を量産時計に導入したばかりであり、その直後にGMTムーブメントへ同認証を展開してみせたことになる。文字盤下半分に刷られた「GMT MASTER CHRONOMETER」の文字は、認証戦略を拡大するという宣言として読まれた。
エイジングという逸脱
もうひとつの主題は外装である。常に「新品の精度感」を貫いてきたチューダーが、本機ではケースからムーブメントまでを人工的に経年させた。ヴィンテージの意匠を引用しつつも質感は常にモダンに保つというブラックベイの原則からの、意識的な逸脱である。一点物だからこそ許される造形実験であり、ブランドの規範を自ら崩してみせた点で、歴代「One」の中でも特異な位置を占める。
量産機への伏線
本機が示唆したMETAS認証GMTは、2024年のWatches and Wondersで発表されたブラックベイ 58 GMT(Cal. MT5450-U搭載)で量産化が実現した。一方、Ref. 79830RB系の標準GMTは現在もCOSC仕様のまま併売されており、本機の予告が系統全体へ波及する途上にある。一点物でありながら、ブラックベイ GMTの系譜を語る上で欠かせない結節点となっている。
意匠分析
外装の基本骨格は量産型Ref. 79830RBと共通で、直径41mm、厚さ14.6mm、200m防水という寸法も変わらない。決定的な違いは表面処理にある。スチール製のケースとリベット風ブレスレットには黒色コーティングを施した後、タンブル研磨で塗膜を不規則に剥離させ、長年使い込まれたような「ガンメタル」の風合いを作り出している。摩耗の入り方は工程上一様にならず、文字どおり再現不能な一点物の表情となった。
ベゼルもエイジングされたスチール製で、24時間目盛は量産機の赤青アルマイトディスクではなく、彫り込みによる単色表現に置き換えられた。これにより、ペプシカラーで知られるブラックベイ GMTがモノクロームの時計へと変貌している。マットブラックの文字盤は表面にむらのある質感を持ち、インデックスと文字はグレーで刷られて背景に沈み込む。視認性を最優先する量産機とは逆の、意匠優先の選択である。スノーフレーク針とリューズのチューダーローズなど、ブランドの記号は維持された。
最大の見せ場は裏側にある。量産型GMTがソリッドバックであるのに対し、本機は刻印入りのサファイアシースルーバックを備え、Cal. MT5652-1Uを露出させる。その受けとローターもケース同様に黒コーティングとタンブル研磨でエイジングされており、外装と機械が同じ文法で統一された。ムーブメントにまで経年表現を及ぼした例はチューダーでは他になく、本機の設計思想を最も端的に物語る部分である。
系譜と歴史
Ref. 7983/001Uは2021年7月1日、Only Watch 2021の出品ロットの一つとして公開された。同オークションは筋ジストロフィー研究支援を目的にモナコ筋疾患予防協会が主催する隔年イベントで、2021年は第9回にあたる。チューダーにとっては2015年、2017年、2019年に続く4度目の出品であった。
公開後、本機は他の出品ロットとともに各都市を巡る展示ツアーに供されたと伝わる。オークション本番は2021年11月6日、ジュネーブでクリスティーズの協力のもと開催され、本機は事前予想を大きく上回る金額で落札された。落札者は公表されておらず、現在の所在も明らかにされていない。売上は全額が研究支援に充てられている。
一点物ゆえに生産履歴はこの1本で完結するが、本機が予告した技術はその後の製品系譜に反映された。2024年のWatches and Wondersでは、METASマスタークロノメーター認証のGMTムーブメントCal. MT5450-Uを積むブラックベイ 58 GMTが発表され、本機で初めて示されたMETAS認証GMTという構想が量産機として結実している。なお、ベースとなったRef. 79830RB系の標準ブラックベイ GMTは2026年現在も現行モデルである。