設計思想
1. J-Classの旗艦として
2014年、Speake-Marinはコレクション体系を再編し、クラシカルなドレスウォッチ群を「J-Class」と名付けた。名称は19世紀末に起源を持ち、1930年代のアメリカズカップを戦った大型レーシングヨットのクラスに由来する。エナメル文字盤のレジリエンス、蛇行する日付針のサーペント・カレンダー、片針のヴェルシェダと並び、その頂点に据えられたのがマジスター・トゥールビヨンである。コレクション新設と同時に発表された第1作であり、J-Classという枠組みそのものを世に示す役割を担った。
2. 原点としてのトゥールビヨン
トゥールビヨンは、このブランドにとって出発点そのものである。ピーター・スピーク=マリンが最初に自名を刻んだ時計は、独立直後に手作りしたトゥールビヨン懐中時計「ファウンデーション・ウォッチ」だった。歯車仕上げ工具のトッピングツールを象ったキャリッジ、熱で青く焼いたブルースチール針という同作の語彙は、そのままマジスター・トゥールビヨンへ受け継がれている。発表時の資料が本作を懐中時計の直系として位置づけたのは修辞ではなく、系譜の宣言だった。
3. レッドゴールドという選択
2014年の発表はグレード5チタン仕様(PIC.10030)を中心に行われたが、ブランドは42mmケースをチタンと18Kレッドゴールドの2素材で展開し、後者が本機PIC.10031にあたる。鏡面に磨かれたチタンが軽量さと現代性を打ち出したのに対し、レッドゴールドは白エナメルとブルースチール針という古典的な組み合わせを温かい色調で包み、懐中時計に通じる性格をより強く引き出す。径42mm、厚さ12mmの寸法、Cal.SM3、文字盤仕様は両素材で共通し、差異はケース素材と尾錠に絞られている。ほかに径38mmのレッドゴールド仕様PIC.10033、ダイヤモンドベゼルのPIC.10032が同じファミリーを構成した。
4. 短い盛期と、その後
マジスターの名は2015年から2016年にかけて、46mmケースのヴァーティカル・ダブルトゥールビヨンや、銅鼓文様を彫り込んだ一点物のドンソン・トゥールビヨンなど、より高額な派生へと広がった。しかし2017年6月に創業者がブランドを去ると、新体制は自社開発のSMAキャリバー群を軸とする新世代コレクションへ舵を切り、J-Classは段階的に整理されていく。結果としてPIC.10031は、創業者自身が造形を主導した最後の時代のトゥールビヨンとして、ブランド第一期の到達点を示す存在になっている。
意匠分析
ケースは創業者の代名詞であるピカデリーである。直径42mm、厚さ12mmの18Kレッドゴールド製で、ドラム型の中胴に薄い二段のベゼル、先端の丸いストレートラグをビス留めのストラップ固定が貫く構成は、2003年の初代ピカデリーから変わらない。ラグ幅は22mm。深い溝を刻んだ大径のフルーテッドクラウンは、創業者がルノー&パピ時代に使ったムーブメントホルダーに着想を得たと伝わる意匠で、ドレスウォッチとしては異例の存在感を持つ。風防と裏蓋の双方に反射防止加工のサファイアを備える一方、防水は30mにとどまり、日常の実用機ではなく工房作品としての性格を示す数値である。
文字盤は炉で焼成した白エナメル。細く引き伸ばされたローマ数字と外周のレイルウェイ・ミニッツトラックを黒で焼き付け、6時上には小さく"enamel"の表記を置く。6時位置には開口部が穿たれ、研磨されたスチールのガードリングが60秒トゥールビヨンを額縁のように囲む。キャリッジはトッピングツールを象り、上部ブリッジには強度を理由に選ばれたDurnicoマルエージング鋼を鏡面に磨いて用いる。針は熱処理によるブルースチールのFoundation型で、ハート形の時針が白エナメルの上に鮮明なコントラストを描く。
ムーブメントはCal.SM3。オフセット配置の香箱の真上にプラチナ950製マイクロローターを重ねた自動巻で、毎時21,600振動 (3Hz)、パワーリザーブは72時間。ロジウム仕上げの洋銀製ブリッジにはサーキュラーグレインが施され、技術仕様が金色の刻印で記される。下部のトゥールビヨン受けはパドル形に整形され、シースルーバックからの輪列への視界を遮らない。
系譜と歴史
マジスター・トゥールビヨンは2014年3月、バーゼルワールド2014に先立って発表された。新設されたJ-Classコレクションの第1作であり、当初の発表はグレード5チタンの42mm仕様(PIC.10030)を中心に行われ、価格は65,000スイスフラン(税抜)と案内された。本機PIC.10031はその18Kレッドゴールド仕様で、WatchBaseでは2014年からの生産と記録される。ブランド資料でも42mmケースはチタンとレッドゴールドの2素材展開と記載され、ほかに38mmレッドゴールドのPIC.10033、ダイヤモンドベゼルのPIC.10032が同一ファミリーを構成した。
文字盤の説明には変遷が見られる。2014年の発表時資料は「白ラッカーの多層文字盤」としていたが、2015年以降のブランド資料や2016年の専門誌レビューでは「炉焼成の白エナメル文字盤」と記述され、"enamel"の表記も確認できる。生産の過程で仕様が改められたと見られるが、切り替え時期の公式発表は確認できない。
派生は短い間隔で続いた。2015年9月には46mmケースに2基のトゥールビヨンを縦に並べたマジスター・ヴァーティカル・ダブルトゥールビヨン(ホワイトゴールド・レッドゴールド各5本限定)が発表され、2016年のバーゼルワールドではベトナムの銅鼓に着想を得た一点物、ダイヤモンド・マジスター・ドンソン・トゥールビヨンが公開された。
2017年6月、創業者ピーター・スピーク=マリンの退社が公表され、以後コレクションは段階的に再編された。J-Classの名は現行ラインから外れ、通常版マジスター・トゥールビヨンもカタログから姿を消している。生産終了の公式発表は確認できないが、現在の公式サイトに残るのはダイヤモンド仕様のみである。