設計思想
トゥールビヨンへの回帰
マジスター・トゥールビヨンが姿を現したのは、バーゼルワールド2014に先立つ2014年3月のことである。直前のスピーク・マリンは「スピリット」コレクションでスポーツウォッチ路線を試みており、その流れの中で発表された本作は、創業者ピーター・スピーク・マリンの原点回帰として受け止められた。
スピーク・マリンの名を冠した最初の作品は、2002年に完成したトゥールビヨン懐中時計「ファウンデーション・ウォッチ」である。そのケージに採用された、時計師の工具トッピングツールを模した意匠は、後にブランドのロゴそのものとなった。マジスターは、この象徴を約12年ぶりに腕時計のトゥールビヨンケージとして蘇らせた機械である。創業者は、トゥールビヨンの価値を精度よりも「文字盤に時の動きを見せる」点に置くと語っており、6時位置の大きな開口部はその思想の表現といえる。
J-Classの頂点として
2014年、スピーク・マリンはクラシック系のモデル群を、1930年代のレーシングヨットに名を借りた「J-Class」コレクションへ再編した。サーペント・カレンダー、レジリエンス、一本針のヴェルシェダと並び、マジスター・トゥールビヨンはその最上位に据えられた。PIC.10030は、この発表時に用意されたグレード5チタン仕様であり、コレクション再編の旗艦という役割を担った。
注目すべきは素材の選択である。エナメル文字盤とブルースチール針という古典的な文法を持ちながら、ケースには貴金属ではなくポリッシュ仕上げのチタンを選んだ。発表時価格は65,000スイスフラン(税別)。独立時計師によるトゥールビヨンとしては抑制的な価格設定であり、軽量な素材と相まって、伝統的複雑時計を日常の腕に載せるという提案だった。
派生と、創業者退社後の系譜
マジスターは発表後、発展形を生んでいく。2015年には2基のトゥールビヨンを垂直に重ねたマジスター・ヴァーティカル・ダブル・トゥールビヨンが登場し、ベトナムの銅鼓をモチーフにした文字盤の特別版も製作された。遅くとも2016年までには18Kレッドゴールド仕様のPIC.10031が併売され、WatchBaseにはPIC.10032、PIC.10033といった関連リファレンスも登録されている。
2017年に創業者がブランドを離れた後も、マジスター・トゥールビヨンはレッドゴールドやダイヤモンドセッティングの仕様でカタログに残り続けた。PIC.10030は、創業者在籍期の設計思想がそのまま結晶した仕様として、系譜の起点に位置づけられる。
意匠分析
ケースは、初期作ピカデリーから受け継ぐドラム型である。薄い二段ベゼル、先端の丸い直線的なラグ、ネジ留め式のストラップ固定、そして大ぶりなフルーテッド(溝彫り)リューズという構成は、創業者がルノー・エ・パピ在籍時に使っていたムーブメントホルダーに着想を得たと伝わる。PIC.10030ではこれを直径42mm、厚さ12mmのグレード5チタンで成形し、全面ポリッシュで仕上げた。見た目はスチールに近い輝きを持ちながら、手に取ると質量の軽さで素材の正体が分かる。風防と裏蓋のサファイアクリスタルは両面とも無反射コーティングが施され、防水は30m。実用時計ではなく観賞のための機械という割り切りが明確である。
文字盤は白。発表時の資料ではラッカー仕上げと紹介されたが、後年の公式仕様では炉で焼成したグラン・フー・エナメルと記載される。縦長のローマ数字と外周のミニッツトラックを黒で刷り、針には熱処理で青く発色させたブルースチール製「ファウンデーション」針を合わせる。ハート型に抜かれた時針は、2002年の創業作から続く意匠である。6時位置にはスチール製のガードリングで縁取られた開口部が開き、鏡面研磨されたデュルニコ・マレージング鋼のブリッジが1分トゥールビヨンを保持する。ケージは複雑な稜線を持つトッピングツール型で、面取りの難度が高い形状である。
Cal.SM3の設計で特異なのは、プラチナ950製マイクロローターをオフセット配置の香箱の上に重ねた点である。ムーブメントの薄型化には寄与しない配置だが、ローターがトゥールビヨンに重ならず、裏蓋側の眺めを遮らない。ロジウムメッキを施した洋銀の受けには技術仕様が刻印され、ネジ頭と皿穴はポリッシュ仕上げ。4本ネジのテンプは毎時21,600振動(3Hz)で振動し、パワーリザーブは72時間を確保する。
系譜と歴史
マジスター・トゥールビヨンは2014年3月にプレ・バーゼル情報として公開され、同月末からのバーゼルワールド2014で正式に発表された。新設されたJ-Classコレクションの一翼を担う形での登場であり、当初の仕様が42mmチタンケースのPIC.10030である。発表時価格は65,000スイスフラン(税別)と公表された。文字盤については、発表時の紹介記事ではホワイトラッカーとされたが、2016年のレビューや後年の販売店掲載仕様ではグラン・フー・エナメルと記載されており、生産途中で仕様または表記が改められたとみられる。
2015年9月には、2基のトゥールビヨンを垂直に連結した派生機マジスター・ヴァーティカル・ダブル・トゥールビヨンがホワイトゴールドとレッドゴールド各5本の限定で発表された。同年11月には、ベトナムの東山文化の銅鼓を彫金で再現した文字盤を持つ特別版トゥールビヨンも公開されている。基本形にも素材違いが加わり、遅くとも2016年9月の時点では18Kレッドゴールド仕様PIC.10031(発表時85,000スイスフラン)が併売されていた。
2017年9月、創業者ピーター・スピーク・マリンが会社を離れる。ブランドはその後もマジスター・トゥールビヨンを継続し、現行の公式サイトではレッドゴールド仕様とダイヤモンドセッティング仕様が掲載され、キャリバー名はSMA-HH03表記に改められている。チタン仕様のPIC.10030は現行ラインアップに見当たらず、生産を終えたとみられるが、公式の終了告知は確認できていない。