設計思想
最も手の届くHMという前提
本機を語るには、まず土台となったHMXから始める必要がある。2015年6月、MB&Fは創業10周年を記念してHMXを発表した。「X」はローマ数字の10を意味する。周年に超複雑・超高額の記念作を出す業界の慣習に背を向け、利益率を削ってCHF29,000(発表時・税抜)という同社の腕時計として最も抑えた価格を実現した、コレクターへの返礼としてのマシンである。名門カロッツェリア・トゥーリングの「スーペルレッジェーラ」に着想を得た流線形ケースを持つドライバーズウォッチで、Lotus Black、Ferrari Red、Bugatti Blue、British Racing Greenの自動車にちなむ4色が各20本用意された。
Black Badgerという増幅装置
翌2016年3月のBaselworldで、MB&FはPerformance Artコレクションの新作としてHMX Black Badgerを発表した。協業相手は、カナダ出身でスウェーデンを拠点とするJames Thompson。Black Badgerの名で活動し、Ambient Glow Technology (AGT) 社の固体蓄光コンポジットを削り出して立体造形する手法で知られる作家である。塗布式のSuper-LumiNovaと異なり素材そのものが発光体であるため、体積の分だけ明るく長く光る。ThompsonはHMXのエンジン上部に載る2つのロッカーカバーをこのブロックから削り出し、機械の心臓部を光源へと作り替えた。
Phantom Blueの立ち位置
Black Badger版はRadar Green、Phantom Blue、Purple Reignの3色各18本で構成され、57.STBL.Bはその青にあたる。公式の説明では、GreenとBlueは通常の光でも蓄光しやすく、PurpleはUV光源を要するとされる。つまりPhantom Blueは、日常的な扱いやすさと発光色の個性を両立させた中間的な選択肢である。Baselworld会場では発光を確かめるために暗所での撮影が繰り返され、最も写真に撮られた展示の一つになったと伝えられる。
Performance Artの系譜と後続
MB&Fは、ステパン・サルパネヴァと組んだHM3 MoonMachine以降、外部の作り手に自社マシンを再解釈させるPerformance Artを断続的に展開してきた。Black Badgerとの協業ではHMXと同時に、L'Épée 1839と共作した置時計Starfleet Machineの蓄光仕様も発表されている。HMX自体はこのBlack Badger版をもって追加展開を終え、側面プリズム表示の発想は同2016年に発表されたHM8 Can-Amへ引き継がれた。本機は、最も手の届くHMが最も実験的な素材協業の舞台になった一例である。
意匠分析
ケース構成はベースのHMXと共通で、グレード5チタンとステンレススチールの2素材をサテン仕上げで組み合わせる。46.8×44.3mm、厚さ20.7mmという数字は大柄だが、低く流れるウェッジ形状のため、数値から想像されるほどの威圧感はないと評される。リューズはケース後方に置かれ、正面の造形を妨げない。
本機固有の差分はエンジン上部に集中する。通常版HMXが金属製カバーに自動車色のコートを施していたのに対し、本機ではロッカーカバーそのものがAGT Ultraと呼ばれる蓄光コンポジットの無垢ブロックからの削り出しに置換された。発光顔料を表面に塗る方式と異なり素材全体が蓄光層として働くため、発光の強度と持続時間に優れるとされる。各カバーにクロームのオイルフィラーキャップが残り、エンジンルームの見立ては崩していない。
時刻表示は双方向ジャンピングアワーとトレーリングミニッツ。水平に回転する2枚のディスクの像を、拡大レンズを一体化した2枚の反射型サファイアプリズムで垂直面に立ち上げる。日中は透明なエンジンカバーから入る光がディスクを照らし、夜間は青く発光するロッカーカバー自体がバックライトとなって数字を浮かび上がらせる。蓄光を装飾ではなく視認性設計の一部に組み込んだ点が、本機の設計上の核心である。
機械はSellita製の輪列にMB&F自社開発のジャンピングアワー/トレーリングミニッツ・モジュールを重ねた自動巻で、毎時28,800振動 (4Hz)、パワーリザーブ42時間。22Kゴールドのローターを備える。ストラップはパンチング加工のカーフで、穴の下から発光色と揃えた青の色層が覗き、サテン仕上げのチタン尾錠で留める。30m防水は日常域にとどまり、本機が実用工具ではなく造形のための機械であることを示している。
系譜と歴史
本機の前史は2015年6月に始まる。MB&Fは創業10周年を記念し、自動車にちなむ4色各20本の限定としてHMXを発表した。翌2016年3月、Baselworld 2016でその再解釈版にあたるHMX Black Badgerが公開される。James Thompsonとの協業によるRadar Green、Phantom Blue、Purple Reignの3色展開で、各色18本。57.STBL.Bはこのうち青の仕様にあたる。通常版の20本から18本へと、1色あたりの本数はわずかに絞られた。同時に、L'Épée 1839と共作した置時計Starfleet MachineのBlack Badger版3色も発表され、腕時計と置時計が同一テーマで揃えられている。発売時のストラップは発光色に合わせた色層を持つパンチングカーフで、以後の仕様変更や追加派生は確認されていない。3色各18本の一回限りの生産で完結したワンタイムエディションである。HMXの系列自体も、2015年の通常版4色と2016年のBlack Badger版3色をもって展開を終えた。側面プリズム表示の発想は同2016年に発表されたHM8 Can-Amへ受け継がれ、本機は現在、MB&Fの過去作アーカイブに生産終了モデルとして収められている。