設計思想
フュメの旗手が初めて「過去」を向いた
2012年にメイラン家の下で再出発した現代のH.モーザーは、フュメ文字盤とロゴすら排したミニマリズムで知名度を築いてきた。その同社が初めて正面からヴィンテージ回帰を試みたのがヘリテージ路線である。着想源は1960年代ではなく、さらに古い20世紀初頭。腕時計が懐中時計の改造品だった時代、パイロットや兵士がワイヤーラグを溶接して腕に巻いた時計の佇まいを範とした。着想源には、同社のミュージアムに残る1920年代のハインリッヒ・モーザー製パイロットウォッチが挙げられている。
ヘリテージの名自体は、2016年に懐中時計を模した限定のパーペチュアルカレンダー・ヘリテージで先に使われていた。現在のヘリテージ・ラインの出発点は、2018年12月にブヘラの「ブルー・エディション」として発表された、スティールケースのパイロット様式の3針機である。グレーのフュメ文字盤にCal.HMC 200を組み合わせたこの限定で示された意匠こそ、本Refの直接の原型である。
限定の実験から正規コレクションへ
2019年、モーザーはこのパイロット様式を自社の正規コレクションに昇格させた。その第1弾に選ばれたのが、3針機ではなくトゥールビヨン搭載の本Refである。ケースはブヘラ版と同じ42mmのスティール。文字盤には同社の代名詞であるファンキーブルー・フュメが与えられた。
スティールケースにトゥールビヨンを収める構成は、同じCal.HMC 804を積むパイオニア・トゥールビヨンと地続きの戦略である。貴金属と複雑機構を不可分としてきた業界の慣習に対し、モーザーはトゥールビヨンの「日常化」を進めていた。本Refはその文脈に、ヴィンテージ意匠という新しい層を重ねた1本といえる。古典的な輪郭に電撃的な青を差すという反転の手法も、伝統を装いながら定石を外す同社の流儀をよく示している。
シリーズの文法を定めた1本
本Refの登場から間もない2019年11月、同じケースと意匠を持つヘリテージ・センターセコンド ファンキーブルー(8200-1201)が追加された。トゥールビヨンが先行し、3針が後から続くという順序は、ヘリテージを単なる復刻路線ではなく、複雑機構を含む系列として示す意思表示でもあった。
その後のヘリテージは、2021年のエナメル文字盤のパーペチュアルカレンダーやデュアルタイム、ブロンズ製の「Since 1828」など、少量・不定期のリリースを重ねる小規模なラインにとどまっている。それでも42mmの丸型ケース、ワイヤーラグ、レイルロード分目盛、立体的なアラビア数字という文法は、本Refが確立したものがほぼそのまま引き継がれている。ヘリテージというラインの輪郭を最初に描いた1本として、8804-1200はシリーズ史の起点に位置する。
意匠分析
ケースは直径42mm、厚さ11.1mmの総ポリッシュ仕上げ。エッジを立てず全体を丸く磨き上げた輪郭と、ケースに溶接されたような細く短いワイヤーラグが、改造懐中時計という着想源を直接に物語る。平たいオニオン型のリューズも同じ文脈にあり、刻みの深いローレットが操作性を担う。42mmという数字に対して装着感が穏やかなのは、ラグが短く薄いためで、ケース厚を11.1mmに抑えたことと併せ、ドレスウォッチとして無理のないプロポーションに収めている。防水は30mにとどまり、実用機ではなく観賞性を優先した設計であることを隠さない。
文字盤はサンバースト仕上げのファンキーブルー・フュメ。中心の鮮烈な青が外周に向けて黒へ沈む同社の定番表現に、白いレイルロード分目盛を重ね、古典的な枠組みと現代的なコントラストを両立させた。大ぶりのアラビア数字はゴシック調の書体で、1920年代のパイロットウォッチを想起させる。スケルトン化された剣型針にも夜光が施され、視認性は装飾過多にならない範囲で確保されている。6時位置にはトゥールビヨンの開口部が設けられ、スケルトン化されたブリッジ越しにキャリッジの回転が見える。
搭載するCal.HMC 804はパワーリザーブ3日の自動巻で、1分間フライング・トゥールビヨンをモジュールとして組み込む。調整済みのモジュールを本体機構と独立して交換できる構造は、メンテナンス性を考慮した同社の手法である。姉妹会社プレシジョン・エンジニアリングが製造するダブルヒゲゼンマイは、ヒゲの伸縮に伴う重心移動を2本で相殺し、姿勢差を抑える。双方向に巻き上げる18Kレッドゴールドのローター、波状の装飾を施したブリッジと金のシャトンは、シースルーバックから観察できる。ストラップはクーズー革で、トゥールビヨンの格式をあえて崩すラフな質感が本Refの性格を決定づけている。
系譜と歴史
8804-1200は2019年に発表された。同年5月までには専門メディアの実機レビューが出揃っており、春の時点で市場投入されていたことが確認できる。限定本数を定めない通常生産モデルとしての導入で、ヘリテージの意匠がスティールケースで正規コレクションに加わったのはこれが最初である。原型は2018年12月のブヘラ限定で、そちらはグレー文字盤に3針のCal.HMC 200を積んでいた。本Refは同じ42mmのケースと意匠に、トゥールビヨンとファンキーブルーを組み合わせた。専門メディアは、1960年代ではなく1920年代を参照した点を、同社初の本格的なヴィンテージ着想として紹介している。
2019年11月には、ケースと意匠を共有する3針機のヘリテージ・センターセコンド ファンキーブルー(8200-1201)が追加され、本Refはスティール製ヘリテージ2機種の上位に位置づけられた。生産期間中に文字盤やケースの仕様変更が行われたという公式発表は確認されていない。
生産終了の公式アナウンスは確認できない。ヘリテージのライン自体は、2021年のパーペチュアルカレンダーやデュアルタイム、ブロンズの「Since 1828」などで継続しており、本Refが定めた様式は後続に引き継がれている。
出典
本文の執筆にあたって参照した資料。閲覧日は内容を確認した日を示す。
- 01 公式 Heritage - H. Moser & Cie.
- 02 専門メディア H. Moser & Cie Heritage Centre Seconds Funky Blue / Introducing, Price
- 03 専門メディア H. Moser & Cie. Heritage Dual Time Burgundy - Hands-On, Price
- 04 専門メディア Hands-On - H. Moser & Cie. Heritage Tourbillon Funky Blue (Specs & Price)
- 05 専門メディア H. Moser & Cie. Introduces the Heritage Bronze “Since 1828”
- 06 専門メディア H. Moser & Cie. Introduces the Heritage Centre Seconds Funky Blue
- 07 専門メディア H. Moser & Cie. Introduces the Pocket Watch-Inspired Perpetual Calendar Heritage
- 08 専門メディア Introducing the H. Moser & Cie. Endeavour Tourbillon Concept
- 09 専門メディア Introducing the H. Moser & Cie. Heritage Bucherer Edition Pilot’s Watch