設計思想
フュメの旗手が初めて「過去」を向いた
2012年にメイラン家の下で再出発した現代のH.モーザーは、フュメ文字盤とロゴすら排したミニマリズムで知名度を築いてきた。その同社が初めて正面からヴィンテージ回帰を試みたのがヘリテージ路線である。着想源は1960年代ではなく、さらに古い20世紀初頭。腕時計が懐中時計の改造品だった時代、パイロットや兵士がワイヤーラグを溶接して腕に巻いた時計の佇まいを範とした。シャフハウゼンのシャルロッテンフェルス城に残る創業家ゆかりのコレクションが参照されたと伝えられる。
ヘリテージの名を冠したトゥールビヨンは、2018年にホワイトゴールドケースとグラン・フー・エナメル文字盤の古典様式(8804-0200)でまず登場した。続いて同年秋、ブヘラとの協業「ブルー・エディションズ」で、スティールケースのパイロット様式によるヘリテージ・センターセコンド(8200-1200)が限定発売される。この限定で示された意匠こそ、本Refの直接の原型である。
限定の実験から正規コレクションへ
2019年、モーザーはこのパイロット様式を自社の正規コレクションに昇格させた。その第1弾に選ばれたのが、3針機ではなくトゥールビヨン搭載の本Refである。ケースはブヘラ版と同じ42mmのスティール。文字盤には同社の代名詞であるファンキーブルー・フュメが与えられ、発表時価格はCHF 49,900に設定された。
スティールケースにトゥールビヨンを収める構成は、2018年末から展開されたパイオニア・トゥールビヨンと地続きの戦略である。貴金属と複雑機構を不可分としてきた業界の慣習に対し、モーザーはトゥールビヨンの「日常化」を進めていた。本Refはその文脈に、ヴィンテージ意匠という新しい層を重ねた1本といえる。古典的な輪郭に電撃的な青を差すという反転の手法も、伝統を装いながら定石を外す同社の流儀をよく示している。
シリーズの文法を定めた1本
本Refの登場から間もない2019年11月、同じケースと意匠を持つヘリテージ・センターセコンド ファンキーブルー(8200-1201)が、より求めやすい価格帯で追加された。トゥールビヨンが先行し、3針が後から続くという順序は、ヘリテージを単なる廉価な復刻路線ではなく高級時計の文脈に置くという意思表示でもあった。
その後のヘリテージは、2020年のパーペチュアルカレンダーやブロンズ製の「Since 1828」、2024年のデュアルタイム(8809-1200)など、少量・不定期のリリースを重ねる小規模なラインにとどまっている。それでも42mmの丸型ケース、ワイヤーラグ、レイルロード分目盛、立体的なアラビア数字という文法は、本Refが確立したものがほぼそのまま引き継がれている。ヘリテージというラインの輪郭を最初に描いた1本として、8804-1200はシリーズ史の起点に位置する。
意匠分析
ケースは直径42mm、厚さ11.1mmの総ポリッシュ仕上げ。エッジを立てず全体を丸く磨き上げた輪郭と、ケースに溶接されたような細く短いワイヤーラグが、改造懐中時計という着想源を直接に物語る。平たいオニオン型のリューズも同じ文脈にあり、刻みの深いローレットが操作性を担う。42mmという数字に対して装着感が穏やかなのは、ラグが短く薄いためで、ケース厚を11.1mmに抑えたことと併せ、ドレスウォッチとして無理のないプロポーションに収めている。防水は30mにとどまり、実用機ではなく観賞性を優先した設計であることを隠さない。
文字盤はサンバースト仕上げのファンキーブルー・フュメ。中心の鮮烈な青が外周に向けて黒へ沈む同社の定番表現に、白いレイルロード分目盛を重ね、古典的な枠組みと現代的なコントラストを両立させた。大ぶりのアラビア数字は印刷ではなく、スーパールミノバを含有するセラミック系素材Globolightによる立体アプライドで、ゴシック調の書体が1900年代の軍用時計を想起させる。スケルトン化された剣型針にも夜光が施され、視認性は装飾過多にならない範囲で確保されている。6時位置にはトゥールビヨンの開口部が設けられ、スケルトン化されたブリッジ越しにキャリッジの回転が見える。
搭載するCal.HMC 804は毎時21,600振動 (3Hz)の自動巻で、1分間フライング・トゥールビヨンをモジュールとして組み込む。調整済みのモジュールを本体機構と独立して着脱できる構造は、メンテナンス性を考慮した同社の特許的手法である。姉妹会社プレシジョン・エンジニアリングが製造するダブルヒゲゼンマイは、ヒゲの伸縮に伴う重心移動を2本で相殺し、姿勢差を抑える。双方向爪式巻上げと18Kゴールドのスケルトナイズドローターはシースルーバックから観察できる。ストラップは白ステッチ入りのクーズー革で、トゥールビヨンの格式をあえて崩すラフな質感が本Refの性格を決定づけている。
系譜と歴史
8804-1200は2019年に発表された。同年5月までには専門メディアの実機レビューが出揃っており、春の時点で市場投入されていたことが確認できる。発表時価格はCHF 49,900。限定本数を定めない通常生産モデルとしての導入で、ヘリテージの意匠がスティールケースで正規コレクションに加わったのはこれが最初である。なお、同じCal.HMC 804を積むホワイトゴールド+エナメル文字盤の8804-0200は2018年に先行しており、本Refはその様式を1920年代パイロット調へ読み替えた兄弟Refにあたる。
2019年11月には、ケースと意匠を共有する3針機のヘリテージ・センターセコンド ファンキーブルー(8200-1201)が追加され、本Refはスティール製ヘリテージ2機種の上位に位置づけられた。生産期間中に文字盤やケースの仕様変更が行われたという公式発表は確認されていない。流通個体には2020年や2022年発行の保証書を伴うものが見られ、発表後も数年にわたり出荷が続いたことがうかがえる。
2026年時点で、公式サイトの製品ページは本Refを「完売(sold out)」と表示しており、新規の販売は行われていない。生産終了の公式アナウンスは確認できないものの、現行ラインアップからは外れているとみられる。ヘリテージのライン自体は2024年のデュアルタイム(8809-1200)などで継続しており、本Refが定めた様式は後続に引き継がれている。