設計思想
無銘の文字盤という挑発
2015年3月、H.モーザー&シーは1本のコンセプトウォッチを公開した。文字盤にはロゴも、インデックスも、文字情報も一切ない。あるのはフュメ(スモーク)のグラデーションと3本の針だけである。同社はこれを「攻撃的なブランディングとマーケティングがあふれる世界で、製品そのものを主役に戻す」哲学的な試みと説明し、当初は1点物として企画していた。
背景には、ブランドの置かれた状況がある。モーザーは2012年にメイラン家のMELBホールディング傘下に入り、エドゥアール・メイランCEOのもとで再建の途上にあった。年産規模が小さく、大手のような広告予算を持たない同社にとって、「署名がなくても判別できる製品こそ本物のラグジュアリーである」という主張は、哲学であると同時に、規模の小ささを逆手に取った戦略でもあった。
反響と4本の限定モデル化
公開されたコンセプトウォッチへの反響は、同社の想定を超えた。これを受けてモーザーは2015年5月、同じ思想を4つの限定リファレンスとして製品化すると発表する。ケースはホワイトゴールドまたはローズゴールド、文字盤はシグネチャー・フュメまたはミッドナイトブルー・フュメで、組み合わせは4通り、各10本。1343-0207はこのうちホワイトゴールドにミッドナイトブルー・フュメを載せた仕様である。通常コレクション外の特別注文扱いで、発表時の価格は約22,000スイスフラン(税抜)と伝えられる。
ベースとなったのは、当時のエンデバー・センターセコンド(手巻きCal.HMC 343搭載)である。つまりこのRefは新しい機構を持つわけではなく、既存モデルから「引き算」だけで成立している。何を足すかではなく、何を消すかで個性を作るという逆転の発想が、このRefの本質である。
フュメが署名になった起点
結果として、この実験はモーザーの方向性を決定づけた。ロゴなしでもモーザーと分かる、すなわちフュメ文字盤そのものがブランドの署名たり得ることが市場で証明されたからである。以後「コンセプト」はエンデバーにとどまらず、同社の各コレクションへ広がる恒常的なラインへと成長した。2017年に同社が全モデルの文字盤から「Swiss Made」表記を外した判断も、この引き算の哲学の延長線上にある。
1343-0207は、その系譜の起点に立つ4本のうちの1本である。10本という生産数以上に、ブランド史の転換点を体現するRefとして記憶されている。
意匠分析
ケースは18Kホワイトゴールドの3ピース構造で、直径40.8mm、厚さ10.9mm。ベースとなったエンデバー・センターセコンドと共通の寸法であり、側面はポリッシュとサテンを交互に切り替えた仕上げを持つ。ドーム状のサファイアクリスタルとシースルーバックを備え、リューズには「M」が刻まれる。
このRefの核心は文字盤にある。ミッドナイトブルー・フュメは中心が明るく、外周へ向かって深く沈むサンバースト仕上げで、製作には200以上の工程を要するとされる。インデックスとロゴを取り去ったことで、視線を受け止めるのはこのグラデーションだけになる。時刻の読み取りはゴールド製の立体的なリーフ針の角度に頼ることになり、分単位の正確な読み取りは難しい。その不便を承知の上で、文字盤を「時を示す道具」から「色彩の面」へ転換した点に、この設計の意図がある。
ムーブメントは手巻きのCal.HMC 343。直径34mm(15リーニュ)と大きく、40.8mmケースの裏側を広く満たす。毎時18,000振動 (2.5Hz)のスロービートに、ツインバレルで最低7日間のパワーリザーブを確保する。ヒゲゼンマイは姉妹会社プレシジョン・エンジニアリング製のストローマン・ヒゲゼンマイ(ブレゲ・オーバーコイル付き)で、脱進機はモジュール化され、オーバーホール時に丸ごと交換できる「インターチェンジャブル・エスケープメント」を採用する。アンクルとガンギ車はゴールド製である。
ストラップは手縫いのブラックアリゲーターで、尾錠はソリッドホワイトゴールドのピンバックル。外装でブランド名を確認できるのは、この尾錠の刻印とリューズの「M」、そしてシースルーバック越しに見えるムーブメントの刻印だけである。ブランディングを消した文字盤と、裏側に残された署名との対比が、このRefの設計を要約している。
系譜と歴史
2015年3月、H.モーザー&シーはロゴもインデックスも持たないコンセプトウォッチを公開した。ホワイトゴールドケースにシグネチャー・フュメ文字盤を載せた1点物で、プレス資料ではRef. 1343-0XXXと案内されていた。想定を上回る反響を受け、同年5月、同社はこの思想を4つの限定リファレンスとして製品化すると発表する。1343-0208(WG×フュメ)、1343-0207(WG×ミッドナイトブルー・フュメ)、1343-0106(RG×フュメ)、1343-0107(RG×ミッドナイトブルー・フュメ)の4型で、各10本。いずれも特別注文のみで受注され、発表時の価格は約22,000スイスフラン(税抜)とされた。
1343-0207の生産はこの10本で完結しており、追加生産は行われていない。一方、コンセプトという枠組み自体はその後も拡張が続いた。手巻きCal.HMC 343を共有する後続として、コズミックグリーン文字盤の1343-0211(20本限定)などが追加され、2020年にはコンセプト誕生5周年を記念して、自動巻きCal.HMC 200を搭載する1200系のセンターセコンド・コンセプト3型(ファンキーブルーの1200-0215は100本限定)が発表された。ロゴなし文字盤は現在、エンデバーのみならず同社の複数コレクションに展開される恒常的な選択肢となっている。
なお、本Refは同社公式の認定中古(CPO)プログラムにも掲載歴があり、公式サイト上では完売(sold)表示となっている。10本という生産数ゆえ、実機を目にする機会は極めて限られる。